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汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

【おんな城主直虎】(11)ゴッドマザーの逆襲と新たなる希望

第11回「さらば愛しき人よ」では、逆襲を目論む今川によって直親が窮地に立つ。

 

元康の急使がもたらした人質交換によって、瀬名は救われ三河に引き取られる。

 

直親は、今川を離れ松平と結ぶことを考えるが、井伊を訪れた松平の使者は偽物で、劣勢の今川が仕掛けた罠だった。

 

駿府に呼び出された政次は、井伊を救うため直親を見捨てることを決める。松平に助けを求めに行った次郎だが空振りに終わる。直親は、死を覚悟して駿府に出向くことを決める。

 

  

今川のゴッドマザー

寿桂尼浅丘ルリ子)は今川氏のゴッドマザーだ。息子・義元(春風亭昇太)、孫・氏真(尾上松也)を後見し、実質的に今川氏を取り仕切っている。

 

寿桂尼は、藤原摂関家の傍流で京の公家の名門・中御門家出身で、駿河の大名・今川氏親に嫁いだ。氏親の嫡男・氏輝、義元、さらに北条氏康の正室・瑞渓院らを生んだ。

 

やや時代は降って、甲斐の武田信玄も京の公家から正室を迎えたが、この時代、地方の有力大名が公家から室を迎えることが多くあったようだ。これは、京の戦乱と地方の荘園の押領によって経済的に困窮し後ろ盾が欲しい公家と、国の内外に対して外交的優位に立つための権威が欲しい地方の戦国大名の利害が一致した政略結婚だ。

 

ちなみに、これは上洛して足利将軍家に代わり天下に号令したいという野心の現れだとする説もあるが、現在では否定的な意見が多いようだ。鎌倉時代以来、東国には京から独立した鎌倉を中心の政治秩序があり、東国の有力大名は比較的、京に対する政治的関心が薄かったと考えられている。むしろ、京の権威を背景に東国の大名に対し主導権を握りたいという思惑の方が強かったのではないか。

 

さて、今川氏の分国法として知られる今川仮名目録は、氏親の晩年に編まれている。病床の氏親がいなくても政務に滞りがないようにと、寿桂尼が中心となって作られたという説がある。氏親が死ぬと、まだ少年の息子・氏輝を補佐。氏輝が若くして亡くなると、側室の子を後継者に立てようとする家臣との内乱を制して、息子・義元を国主の座に就ける。

 

その後も、義元の教育係だった太原雪斎佐野史郎)とともに今川家を支える。武田信玄の姉を義元の正室に迎え、自らの娘を相模の北条氏康の正室に送り込むことで三国同盟を完成させる。ちなみに、氏真の正室は北条氏康の娘であり、彼らはいとこ同士、寿桂尼にとっては孫同士の婚姻ということになる。さらに、信玄の嫡男・義信の正室は、義元と信玄の姉との間に生まれた娘で、こちらもいとこ同士の婚姻となる。三国間の二重三重の婚姻は、三国同盟を外交の基盤と考えた寿桂尼の執念ではないか。

 

義元死後も今川家はその命脈を保ち続けるが、寿桂尼の死後、武田氏の侵攻により実質的に滅亡する。裏を返せば、寿桂尼の目の黒い間は信玄も勝手な真似をできなかったということだろう。

 

「女が政治に口を挟むと国が滅びる」というのは、儒教の影響が強くなった江戸時代以降の考え方だ。戦国時代には、大名にとって公である国と私である家が未分化だったから、家を支える女性が政治力を持つのは当然だったろう。また、農村的で嫁入り婚の伝統を持つ武家と異なり、都市的で古くは婿入り婚が一般的だった京の公家の出身であることも、女性が独立した政治力と外交力を持つことに役立ったのかもしれない。

 

女傑・寿桂尼は、次郎法師柴咲コウ)や瀬名(菜々緒)の前には強大な敵として立ちはだかるが、後の彼女たちにとってのロールモデルになったかもしれない。

 

 プリンス長照

寿桂尼のもう一人の娘は、三河西郡・上ノ郷城の鵜殿長持に嫁いでいる。鵜殿氏は東三河の有力な国衆で、今川氏は鵜殿氏を一門化することで三河支配の中核に据えようとしたのだろう。

 

長持の子・長照は、寿桂尼の孫にあたり、いわば今川のプリンスだ。この時代、大名は側室を持ち、多くの子を設けるのが一般的だったが、正室の子と側室の子では身分に大きな違いがあった。側室の子よりも、むしろ長照のような正室の娘が産んだ外孫の方が地位は高かった。

 

長照は、桶狭間の戦い前には、対尾張最前線の大高城に城代として入っている。危険もあるが花形の任地であり、今川氏の期待の高さが伺える。

 

そうしたことからも、長照の遺児たちは今川家の中でも高い地位にあり、瀬名たちとの交換に用いるにはうってつけの人質だったのだ。

 

桶狭間後、元康(阿部サダヲ)は本拠地・三河岡崎から駿府に戻らず、三河国衆を糾合する独自行動を取る。鵜殿氏の一族でも松平に付く者が出る中、長照は元康に上ノ郷を攻められ、討ち死にする。ちなみに、桶狭間前夜には織田方に包囲された大高城に元康が兵糧を運び入れて長照の窮地を救っていたのだから、両者の運命は皮肉なものだ。

  

 三界に家の無い瀬名

松平氏は西三河各地に一族が盤踞しており、元康の祖父・清康が一族を統合し尾張織田氏などと戦った。しかし、清康が尾張の陣中で客死すると勢力が弱まり、今川の傘下に吸収される。

 

三河は商工業が発達した尾張と比べると後進地域で、経済基盤は農業によるところが大きかった。伊勢湾の海上交通は、東三河渥美半島を経由して東国に向かうため、そこから取り残された西三河は特に後進性が強かっただろう。

 

松平氏は井伊氏と比べてもやや規模が大きい程度の国衆だから、のちに江戸幕府の重臣となる家臣たちも、この時代は井伊の重臣たちと似たような小規模な農村経営者に過ぎなかっただろう。そうした「徳川軍団」の特性は、極めて強い結束力と戦場での勇敢さとして現れるが、一方では、その農村的な閉鎖性は江戸幕府の陰気で粘着質な性格にも繋がっただろう。

 

また、その出自から松平の家臣団には農村経営以上の大規模で高度な政治力と外交力を持った人材が少なかった。初期の家康を支えた石川数正中村織央)、酒井忠次も、のちに徳川四天王といわれる本多忠勝榊原康政、そして井伊直政も皆、家康の側近出身だ。

 

のちに三河出身でない直政が徳川家中で異例の出世を遂げることができたのも、戦国大名に成長途上の徳川家の極端な人材不足があったかもしれない。

 

桶狭間後、西三河の一族をまとめ上げ東三河にも進出した元康だったが、勢力基盤は安定していない。東三河の国衆は、本来、松平と同格という意識があるし、この一年後には譜代家臣が一向一揆に荷担して反乱を起こすなど足元も安定しているとはいえない。

 

この頃の元康には、井伊を助けて今川と正面から激突するほどの力はまだ無かっただろう。もし、元康が望んでも内向きな松平家臣団は隣国に出兵することには強行に反対したに違いない。

 

呪われた生まれの瀬名は、今川にも井伊にも居場所が無い。しかし、三河でも歓迎をされなかった。今川の姫である瀬名は見殺しにしても構わないという三河武士の酷薄さ。これは、極端に内と外を区別するムラ的閉鎖性と今川に対する被害者意識からきているだろう。

 

家が無いのは、実は元康も同じだ。駿府では人質だったが、三河でもかつがれた殿様だ。駿府で育った元康は閉鎖的な三河の風土には馴染むことができない。瀬名に対する彼らのひどい態度も腹の底では憤りを感じる。しかし、今の彼には家臣団の反対を押し切るほどの力は無い。のちの家康が、浜松、駿府と拠点を移し、晩年も駿府で過ごしたのも、息苦しい三河的なしがらみから抜け出したいという思いがあったからかもしれない。

 

どこにも居場所が無い瀬名の唯一の望みは、息子・竹千代を立派に育てあげ、「今川を手に入れる」ことだ。彼女の不遇な境遇に対する復讐心は、あくなき向上心として昇華される。

 

しかし、彼女と三河武士団のぎくしゃくした関係は、のちに悲劇をもたらすことになるのかもしれない。

 

 運命は次郎法師に託された

劣勢に立たされた今川は、井伊に対して罠を仕掛けてきた。老いた巨象も、まだ井伊ほどの勢力を踏みつぶすくらの力は持っている。デススターが破壊されても帝国は帝国だ。

 

遠江の国衆たちは、いつか今川から離れることを考えながらも、ひとりだけ先に抜けては潰されてしまう。同じ夢を見ながらも、敵味方に分かれて戦うことにもなりかねない。赤信号はみんなで渡らないと怖いのだ。

 

数十年にわたり、北条、武田とやり合ってきた百戦錬磨の寿桂尼の前では、直親(三浦春馬)はあまりにも若すぎた。簡単に策略にはまってしまう。

 

そして、駿府に呼び出された政次(高橋一生)は、この場面が彼らの父親たちの運命とまったく同じであることに気づき、運命を呪う。

 

次郎と直親と政次の三人が揃えば無敵のように思えていたが、その幸せな時間はほんのわずかで終わってしまった。

 

駿府の政次は、直親を生贄にすることでしか井伊家を救えないと考えた。それは、同時に自分を主君を売った裏切り者に貶めることでもある。

 

直親は、井伊谷にいて「政次ならどんな策をとるか」と考えたのだろう。そして、自分の生命を差出して井伊家を守ることを選ぶ。

 

直親は死に、政次は悪魔に魂を売り渡す。それでも、井伊には次郎がいる。二人は次郎法師に未来を託したのだ。

 

しかし、井伊と次郎の前途は多難だ。敵の敵は味方ではない。

 

井伊家がのちに重臣として名を残すからといって、徳川が善玉であるとは限らないのだ。強大な今川が衰えた後、次に立ちはだかるのは徳川であるかもしれない。

 

その意味で、この物語は徳川史観に塗りつぶされてしまった井伊家の真実の物語として語られるのかもしれないのだ。そこで抹殺され、貶められた者たちの鎮魂歌であるのかもしれない。

 

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