汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

【おんな城主直虎】(24)ゆるい幸せがざらっと続くとして

第24回「さよならだけが人生か?」では、いよいよ歴史が動き出す。

 

今川家では、武田に対する制裁として塩止めを行うとともに、家中の引き締めのため縁談を積極的に推し進めていた。新野家の三女、桜には今川の重臣・庵原氏へ嫁ぐよう命が下る。直虎と南渓は桜の相手、助右衛門を秘かに訪ね、人物を確かめる。桜は井伊から駿府に嫁ぎ、三河の徳川の元には織田家の姫が嫁いでくる。

 

 

永禄10年夏

永禄10年(1567年)。この頃、井伊家の周辺諸国で政治的緊張が極限まで高まっていた。

 

同盟を破棄した武田と今川の関係は一触即発の状態。寿桂尼浅丘ルリ子)はまだ存命で、その外交的存在感がどうにか両国の衝突を回避させていたのかもしれない。

 

尾張織田信長市川海老蔵)は、この年、美濃の斎藤氏を滅ぼし、岐阜城に移る。この後の信長の急速な勢力拡張からすれば、すでにそのための準備を周到に行っていたのだろう。領国の広さ以上の強大な力を持っていたと想像できる。

 

徳川の嫡男・竹千代と信長の娘・徳姫の政略結婚も信長の壮大な計画の一部だろう。そして、近江の浅井氏、甲斐の武田氏とも婚姻関係を結び、上洛への地ならしを着々と行っている。

 

家康(阿部サダヲ)が信玄の娘を迎えようとしていたことは十分にありえる。この頃、織田・徳川・武田の三家は利害が一致し、表面上、友好的な関係にあった。しかし、将来は仮想敵国となるかもしれず、水面下では激しいつばぜり合いがあったのだろう。

 

家康にとっては、まだ帰趨が曖昧な奥三河に武田が勢力が及ぶことが現実的な恐れとしてあった。一方、信長は、織田と武田で徳川を取り込んだ方が優位に立てると考えていたのだろう。

 

ともかく、織田との婚姻によって瀬名(菜々緒)は竹千代とともに岡崎城に入ることが許された。しかし、どうやら瀬名にとって徳川家は自分の家では無いらしい。天下のどこにも家が無いことが、瀬名の心を井伊へと向かわせるのかもしれない。

 

そして、家康も同じように感じている。外からの力と家中の動きが絡み合って生み出す複雑な力学に走らされている。

 

瀬名と家康はたがいに孤独で、それが二人を引きつけている。しかし、彼らの間にもすき間風が吹いている。

 

それにしても、瀬名と家康の会話は予言で満ちている。「空き城を拾う」というのは、家康の生涯の行動指針になっていくのだ。

 

塩止めで失うもの

今川氏真尾上松也)は武田への制裁措置として、塩の輸出を差し止める「塩止め」を行う。このとき、困った信玄に対し越後の上杉謙信が取った行動が「敵に塩を送る」という言葉の由来となった。

 

しかし、現代の感覚と異なり、国境を越える貿易を「政府」が統制することは困難だっただろう。謙信のエピソードも、街道と港を幕府が支配し関所で通行を制限できるようになった江戸時代の感覚で生まれたものかもしれない。

 

信州塩尻は、越後から信濃川をさかのぼる塩の交易の終点であることから付いた地名だ。信玄と謙信が争っていた間にも、河川を通じた流通は商人たちが勝手に行っていたのだろう。

 

駿河からのルートも、やはり抜け穴があったに違いない。駿府の専売商人が甲斐に送れなくなった塩を、方久(ムロツヨシ)のようなブローカーが間に入って迂回ルートで流す。その際、塩余りの駿河では安く買い、塩不足の甲斐では高く売る。結果的に傷むのは、今川家御用達の駿府の商人たちだ。

 

このように外交的な理由で貿易に制限が加えられることを、商人たちはもっとも嫌う。計算できない将来のリスクになるからだ。

 

そうしたリスクを排除して、自由な商活動を保証するのが楽市楽座政策になる。塩の統制を厳格化するには、一部の特権商人に寡占的に塩の流通を任せなければならなくなる。これは、取引の流動性を阻害し、利権から漏れた商人たちが不公平感を募らせる事態を招く。

 

この頃の氏真は駿府楽市楽座を行っているはずだが、それに反することをやっているようでは信用を失う。

 

室町時代までの商業は、寺社などの権威を背景に武士の統制外で発展してきた。そのことが、武士の政治対立に巻き込まれずに全国的な流通ネットワークを築くことに一役買っていたかもしれない。

 

その商業を支配下に収めることが、戦国大名の大きな政治課題のひとつでもあった。しかし、武士の支配下に入れば、大名間の政治対立に巻き込まれて商取引が制限されるとなれば、商人たちの反発と失望は非常に大きなものとなる。

 

氏真は制裁失敗以上の政治的なダメージを負ってしまったのかもしれない。

 

新野家の三姉妹

新野家の三姉妹は井伊谷に身を寄せている。直虎(柴咲コウ)の母・祐椿尼(財前直見)が叔母にあたる縁を頼ってのことだ。

 

もともと新野家は、今川の直臣で、井伊家にとっては目付の立場だ。領地も井伊とは別にあった。しかし、父・左馬助(苅谷俊介)が戦死した後の三姉妹の境遇を見ると、本来の主家・今川家の態度はひどく冷淡に見える。

 

新野家の三女・桜(真凜)は、今川氏真の命で、今川の重臣・庵原一族の助右衛門(山田裕貴)に嫁ぐ。庵原氏は太原雪斎を輩出した一族で、現在の静岡市清水区付近に古くから根を下ろした名族だ。

 

その後、直虎は政次(高橋一生)と謀って、次女・桔梗(吉倉あおい)を北条の家臣・狩野主膳に嫁がせる。

 

これらの婚姻戦略は、新野家の主家である今川家が主導したものとも考えられる。しかし、今川家の新野家に対する冷淡な態度を考えれば、むしろ井伊家が主導したと考えることもできるかもしれない。

 

直虎が従姉妹たちを配することで、不安定になったきた縦糸(今川家との主従関係)に代わる国内外の有力豪族との横糸を軸に井伊家の生き残りを図ったという考え方だ。こうした国をまたいだ横のつながりを重視する外交戦略は、境界の領主である井伊家が古くから行ってきたことだ。

 

事実、この婚姻戦略は今川家の生き残りのためには役に立たなかった。その一方で、今川亡き後の徳川、武田、北条の三つ巴の争いの中で、井伊家が生き残っていくためには助けになったかもしれない。

 

特に、後に井伊家を背負い徳川の謀将となった直政が、関東甲信を舞台に外交や調略を行うに当たっては、この姻戚関係が貴重な国外の手がかりになっただろう。しかし、それは直虎よりもずっと後の時代の話だ。