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【おんな城主直虎】(32)政次よ、これが死亡フラグというものだな

第32回「復活の火」では、直虎の策が破れ政次が窮地に陥る。

 

直虎は家康に書状を送り政次の内応を約束するが、すでに家康は次善の策として鈴木、菅沼、近藤の調略を行っていた。武田軍の侵攻により今川は壊滅状態になる。家康も三人衆を先陣に遠江に侵入する。満を持して徳川に寝返る政次。徳川の軍勢を迎え入れようとしたそのとき、何者かが徳川軍に矢を射ちかけてきた。

 

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【おんな城主直虎】(31)地獄でなぜ悪い

第31回「虎松の首」では、今川の謀略を逆手にとった直虎と政次の策が動き出す。

 

直虎は徳政令の実施を認め、自らは領主の座を退く。井伊領は今川の直轄となり、井伊家の面々は隠れ里に身を隠す。氏真は政次を井伊の城代とする条件として、虎松の首を要求する。直虎は今川の動きを察し、先手を打って虎松を三河の寺に逃がす。政次は、虎松と偽って身代わりの首を差出し、城代の座を就いた。

 

今川の策を骨抜きにする直虎の策

政令の実施をきっかけに直虎(柴咲コウ)は領主の座を降り、井伊領は今川の直轄領となった。今川の進出は徳政令による井伊家の財政破綻に乗じたものなので、銭主に代わって担保の差し押さえを行う行政代執行というのが正しいかもしれない。

 

井伊の一族は夜逃げ同然で川名の隠れ里に身を隠すことになるが、このあたりは徳政令という金融政策の複雑な影響を単純化して見せたものだろう。実際には、徳政令の副作用として井伊領内の経済混乱や井伊家の財政破綻があったとしても、それが表に出てくるまでには時間がかかる。むしろ、直虎の降板は徳政令という政策判断の責任を取ったことによるものではないか。

 

劇中では、百姓まで含めたオール井伊VS今川という構図が強調されているが、実際には井伊の内部はそこまで一枚岩では無かったのではないかと思う。徳政令というのは、立場によって利害が大きく分かれる政策だ。農民を中心とした賛成派と商人を中心とした反対派、両派に加担して家臣団も二つに分かれ、そこに親今川・反今川という政治的イシューも絡んでくる。今川としては井伊家を分断する爆弾を投げこんだようなものだろう。直虎としては、徳政令は実施するが自らは責任を取って辞任することで両派を納得させ、決定的な分裂を防ごうとしたのではないだろうか。

 

そう考えれば、直虎から政次(高橋一生)への政権交代も実は直虎の思惑通りに見えてくる。江戸時代に著された井伊家の史書などによって、政次はお家乗っ取りを企てた極悪人というのが定説になっている。しかし、ドラマで描かれるように、直虎と政次が裏で気脈を通じていたと考えても辻褄は合いそうだ。

 

政次が井伊領の代官になることで、井伊領への今川の介入をコントロールすることができる。また、領内の混乱を最小限に収めたことで、井伊家の土台にあたる領民や下級武士たちをそっくり残すこともできた。今川が去った後、井伊家が元の地位に帰ってくれば、今まで通りの井伊に戻れるという算段だ。

 

今川の思惑通りに見せかけて、実は要求を骨抜きにしてソフトランディングすることに成功している。

 

今川の策を逆手にとった政次の策

隠れ里に落ち着いた後、直虎は逆転の策と政次が味方であることを一同に明かす。しかし、これはまずかっただろう。井伊家の近親者のみとはいえ、どこから話が漏れるか分からない。井伊領内の保全のため、今川からの信頼を勝ち得ようと奔走している政次に疑いがかかるようなことがあれば、起死回生の策も破綻してしまう。

 

しかし、井伊家の面々の最高潮に達したストレスをなだめるためには必要だったのかもしれない。事態を悲観して自害をしたり、予期せぬ行動に出る者がいたかもしれないし、直之(矢本悠馬)のような急進派がパルチザン化して、ゲリラ戦や政次暗殺などに走る恐れもあっただろう。

 

とはいえ、政次が味方であることを明かしたのは、冷徹な井伊家再興策のためには必要ない。しかし、ここで言っておかなければ、井伊家再興の後、政次が井伊家によって誅殺されてしまうかもしれない。直虎は政次を救うために危険を冒したのだろう。

 

ともかく、政次の立場はひどく危ういことになっている。今川が滅びるのが目に見えている状況で、今川の代官となるのは非常に危険だ。徳政令が無ければ政次の立場に立つのは直虎だった。政次は自らを直虎の身代わりにするため、今川の策を逆手に取ったのかもしれない。

 

直虎は、井伊家再興の後、政次を救い出すことを考えているが、政次の考えはよく分からない。「地獄へは俺が行く」という政次の言葉は、罪のない子どもを殺めたことに対してではなく、やはり、井伊家再興のために自らを犠牲にする決意のように思える。

 

今川が徳川に替れば井伊家は元通りになる、という直虎の策はおおむね正しそうだが、あまりに単純化されてるように思う。政治情勢はより複雑で、無視できない不確定要素がごろごろと転がっている。

 

新しい同盟者の徳川も信用はできない。家康(阿部サダヲ)の人柄はともかく、家中政治が複雑で後から決定が覆ることが多々ある。鈴木、菅沼、近藤の三人衆も今川から徳川への乗換えを謀っているだろう。だからといって、彼らが味方とは限らない。敵か味方かお互い分からない中で、自らを優位に立てるために井伊を踏み台にしようとするかもしれない。遠江の国衆たちも、それは同じだ。そして、気賀、さらに今川に寝返った方久(ムロツヨシ)も、どういう動きをするか読み切れない。

 

彼らの思い思いの行動が複雑に絡み合って、だれも望まないイレギュラーな事態を引き起こすかもしれない。そして、そんな小さな小石のような事件が直虎の策を大きくつまずかせるかもしれない。

 

さて、すっかりいい人になった龍雲丸(柳楽優弥)。虎松の身代わりに病気の子どもを金で買い取ってくるようなことは、盗賊あがりの何でも屋にうってつけの汚れ仕事ではないか。政次の真意を察して裏で龍雲党が動いたものかと思ったが、今回はぼんやりとしていたらしい。悪人ぶりでは、政次にずっと上を行かれてしまった。近く迫った戦乱に気賀も無関係ではいられない。そのとき龍雲丸はどう動くのか。評論家のような仕事は今回限りでいいだろう。

 

【おんな城主直虎】(30)謀略に組み込まれたときに心得るべき2,3のことがら

第30回「潰されざる者」では、ついに井伊家が絶体絶命の窮地に陥る。

 

氏真は徳政令を蒸し返して、それを口実に井伊家を潰そうと謀る。心ならずも今川の陰謀に組み入れられた方久は態度が不審になり、政次に見破られてしまう。しかし、氏真側近の関口は既に井伊谷を訪れており、直虎に徳政令実施を迫る。百姓たちは関口の寝所に押しかけ抗議をする。その頃、直虎と政次はそれぞれに秘策を練り上げ、井伊を救うための決意をしていた。

 

 徳政令と直虎と政次

今回、ついに氏真(尾上松也)がかつての徳政令を蒸し返し、実施を強硬に迫ってくる。これが寿桂尼浅丘ルリ子)の最期の策の正体。さしづめ、「死せる寿桂尼、生ける直虎を走らす」といったところだ。

 

このとき発布される関口氏経矢島健一)との連署の文書が、直虎(柴咲コウ)の署名と花押の入った唯一の文書になる。これは直虎実在を示す同時代の数少ない証拠のひとつだ。

 

これだけ書くだけでも来週のネタバレになってしまうが、直虎としては徳政令を受け容れるしか方法は無い。あとは受け容れ後、どういった状態で来たる徳川との戦を迎えるかだ。

 

政令は農民の借金を棒引きにするものだが、銭主(債権者)は大損をする。劇中では、結果として銭主が井伊家の借金取立てを強硬し、井伊家の財政が破綻する、というルールを示しているが、これは視聴者が理解できるように極端に単純化したもので、実際に起きる金融的影響はもっと複雑だろう。いずれにしても、戦国時代の農村地帯にも貨幣経済、信用経済は深く浸透しており、金融システムの破綻によって井伊領の経済と財政が大混乱に陥ることには違いない。水戸黄門的に「よい農民と悪い商人」という図式で裁くわけにはいかないのだ。

 

もうひとつ取り上げるべきは、戦国大名・今川家による井伊領の行政への介入だ。今川家は義元、氏真の代を通じて、領内の国衆や寺社の政治権力や経済特権を取り上げ、今川家への権力集中を目指してきた。

 

直盛時代の検地も史実かどうかは不明だが、そうした国衆の行政権への介入のひとつだ。

 

そして、直虎政権に突きつけられたのが徳政令の実施。本来は領主・直虎の専決事項であるところに、今川氏が実施を命令することで井伊氏の行政権を骨抜きにする。直轄領化へ向けて、こうした既成事実を積み上げて行こうという魂胆だ。

 

直虎の政治家としての実績は、今川の徳政要求を数年間先延ばしにしたことだと考えられている。どうやら、この間に銭主との間に立って債権整理を行い、徳政令後の経済の混乱が最小限になるようにしていたらしい。この部分は、劇中では綿の栽培や材木の伐り出しなど殖産興業的に描かれているが、史実ではもっと地味だったかもしれない。しかし、直虎的に言えば、年表に載るような歴史的事件から離れてでも、これらは丁寧に描くべき価値のあることがらなのだ。

 

そして、その直虎政権を支えたのが方久(ムロツヨシ)と政次(高橋一生)だ。政次は、江戸時代に著された井伊家の史書では極悪人に描かれている。しかし、それは徳川大名としての井伊家の事情を強く反映した歴史であって、直虎の事績を考えれば、今川に対する盾となり直虎の影として井伊家を支えた政次を想像してもいいのかもしれない。

 

そして、いよいよ数百年の汚名を背負うことになる悲劇が政次と井伊家を襲うことになる。

 

複雑に絡み合う謀略 

今川の謀略に巻き込まれた方久は挙動不審になる。海千山千の商人としては意外なほど嘘が下手だ。金儲けのためなら手段を選ばないように見える商人も信用と正直が一番大切ということかもしれないし、ことが金儲けで無いために完全に調子が狂ってしまったのかもしれない。

 

まあ、裏切りは武士の専売特許と考えた方がおもしろい。盛んに忠義を語るのは、むしろ裏切りが日常茶飯事だから。裏切り隠しは武士には必須の技術だが、商人の方久には難しいのかもしれない。

 

それにしても、あまりにも謀略が多く飛び交っていて、誰と誰が秘密を分け合う仲間なのか混乱してしまいそうだ。今川には、政次を介した表の謀略と方久を巻き込んだ裏の謀略がある。直虎は三河との内通を重臣の六左衞門(田中未央)、直之(矢本悠馬)と共有していることになっているが、実際には直虎と政次の間でより深い秘密が握られている。

 

方久は井伊の謀略から除かれている。彼が見る人物関連図はどのようになっているのか。あるいは龍雲丸(柳楽優弥)にはどう見えているか。そして、井伊谷三人衆なども思い思いに謀略を巡らせているのだろう。

 

謀略を謀略で返すためには、謀略を見抜くだけでなく、誰にどの謀略が見えて、どれは見えていないのかまで見抜かなければならない。

 

さらには、謀略には騙す者と騙される者がいるだけでなく、どちらでも無い者もいる。味方を敵と偽れば、どちらでも無い者から刺されるかもしれない。

 

誰が味方で誰が敵か分からない状態で疑心暗鬼が広がって行く。すべての謀略を回収して、心の闇を取り除くことは不可能なのだ。戦争がすべてを破壊し尽くした後にも、不発弾のように謀略がもたらした闇は残るのだろう。

 

【おんな城主直虎】(29)徳川軍団のトリセツ

第29回「女たちの挽歌」では、虎松の生母・しのが井伊谷を去る。

 

ついに寿桂尼が死に、今川と武田は正式に手切れとなる。直虎の武田包囲策は不発に終わり、家康は武田に与しての今川攻めを決断。井伊家は、しのを松下家に再嫁する形で徳川の人質とすることを求められる。虎松は回避策を考えるが、直虎に却下される。しのは虎松と分かれて嫁いでいく。一方、窮地の今川は寿桂尼の残した井伊潰しの秘策を発動させる。

 

キーパーソン酒井忠次

一時は直虎(柴咲コウ)の策に乗り上杉と連携して武田の封じ込めを目論んだ家康(阿部サダヲ)だったが、筆頭家老の酒井忠次みのすけ)に押し切られる形で、武田と結んで今川領侵攻を決断する。

 

酒井家は松平家から分かれた一族で、西三河の武士団では松平家に次ぐナンバー2の家柄だ。忠次は家康の駿河人質時代の最年長の随行で、三河独立の後には徳川家と縁の薄い東三河の抑えとして吉田城に入っている。家康と徳川家臣団の両方から信頼の厚い徳川家の最重要人物だ。

 

後の徳川四天王の中では、忠次は最年長でただひとり家柄もよい。四人の出自はさまざまだが、共通するのは家康の側近出身ということだ。もうひとり、四天王には入っていないが、家康の側近中の側近として鳥居元忠がいる。鳥居も家康の駿河時代の随行で、後には上田攻めの総大将や関ヶ原の戦い伏見城留守居を任せられるなど重用された。

 

これらのことから、ネガのように家康の三河武士団への不信感が浮き彫りになってくる。つまり、家康は古くからの三河武士団の政治システムをそのまま用いるのではなく、要所には巧みに自分の息がかかった側近を登用して、家臣団を制御しようとしているのだ。

 

実際、三河武士団からすれば家康は神輿のような存在だったろう。三河結束の象徴としていてもらわねば困るが、大事なことは家康でなく武士団の合議で決めたい。三河一向一揆も「家康がいなくても武士団の結束があればよい」と考える者たちの反乱だっただろう。一方、駿河尾張で「本物の戦国大名」を見て知っている家康からすれば、彼らのやり方は保守的で閉鎖的で時代遅れに見えて仕方無い。

 

おそらく、家康と家臣団の間には政治の実権をめぐる綱引きがあった。そして、築山殿(菜々緒)の処遇を見ても、この時期はまだまだ家康の権力は弱く、譲歩が多い。

 

その両者の間に立ってバランスを取っているのが酒井忠次だ。酒井がいなければ家康の政権は瓦解するに違いない。だから、酒井が今川攻めを献案するのであれば、家康は首を横に振ることはできなかったはずだ。

 

しの、人質となる

徳川は虎松(寺田心)の生母であるしの(貫地谷しほり)を人質として差し出すことを要求する。今川との戦いに際して、井伊に徳川の側に立つ保証を求めた形だ。

 

このあたりにも徳川家臣団の内向きな陰湿さがにじみ出ている。内側の結束は堅いが、よそ者に対してはどこまでも酷薄でいられる。今川のような大物の度量が無い分、余計に付き合いにくい相手だ。徳川の遠江攻めに井伊は出兵しないという直虎との密約も、あの手この手で反故にされる可能性があると見ておいた方がよさそうだ。

 

直政の母は曳馬の松下清景に再嫁しているが、徳川の人質としてだったかは分からない。実際にはもう少し時期が早く、直親謀反の累が及ぶのを避けるためだったかもしれない。その場合、虎松も母に従って井伊谷を去っていたかもしれず、直虎から直政への継承は約束されておらず、井伊家の将来は宙ぶらりんの状態だっただろう。

 

この時代、武家の女性の再婚はよくあった。徳川家康の母も尾張の久松家に再嫁している。おそらく後世よりも女性の社会的地位が高かったことが背景にあるのではないか。武家の婚姻は政略結婚という側面もある。しかし、家や夫に従属しきるのではなく、独自の財産権と実家の権威を背景とした政治力を持っていたのだろう。事実、久松家で生まれた家康の異父弟の家系は、後に伊予松山藩主となり幕末まで続いている。母系を重視する戦国の遺風といえるだろう。

 

しのの宣言通り松下家へ再嫁した彼女は、虎松と井伊家の味方を増やすために大いに活躍しそうだ。松下家は小禄ながら遠江で数少ない隠れ徳川派として存在感のある家だ。閉鎖的な徳川家中では、外様の井伊家が居場所を見つけるには相当に風当たりが強いだろう。そんな中で松下家との縁は、井伊を助ける橋渡しになってくれるはずだ。

 

外様で若年の直政が徳川家中で四天王といわれるまで出世できるのは、直虎としのという二人の母の奔走があるからに違いない。