NEXT WISDOM FOUNDATION「オフグリッドの世界の可能性」
NEXT WISDOM FOUNDATIONのイベント「オフグリッドの世界の可能性」が12/22、茅場町のCAFE SALVADORでありました。ゲストスピーカーはシリアル・アントレプレナーの孫泰蔵さんと『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』などの著書がある慶應義塾大学大学院教授の前野隆司さん。
今話題の方々の登壇とあって、参加募集中にキャパシティの大きい会場に変更となった上に満席という大人気のイベントでした。
「オフグリッド」という言葉は、最近では電力などエネルギーの供給に関して使われるのが一般的です。しかし、この日のゲストは直接的にはエネルギーとは関係の無さそうな方。どのようにオフグリッドにアプローチするのか。あるいは、オフグリッドをより抽象的に社会全体にスピンアウトさせて話をされるのではないか。そうした期待がわたしの興味の中心でした。
孫さんは、自らの立ち上げたスタートアップ支援の会社Mistletoeで関わっているベンチャー企業の研究開発事例を紹介してくれました。
ルワンダで実証実験中のドローンを使った医療品配給プロジェクト。発展途上国では輸送インフラや保管設備が整わないため、支援物資が必要なところに届かないことが昔から多発しています。中央集中管理とドローンを使った輸送によってこの問題を解決しようとしています。他にも海上を自走する巨大な網でゴミを集め海洋清掃を行うプロジェクト、真空のチューブを使って時速800キロでの輸送を行うプロジェクト。第4世代といわれる完全な自動運転技術。最低限のエネルギーを自給できる運搬可能なタイニーハウス。
それぞれが今までの社会のあり方をくつがえすことのできるインパクトの大きい技術です。
それ以上に興味深かったのが、プロジェクトの始まり方。ひとりのアイディアに資金や技術、労力などさまざまな支援が巻き付いてきて雪だるまのように成長していること。そして、そこに関わる人が国やさまざまな属性をまたいで集まっていること。これは、国家があって企業があって、という形でプロジェクトを組み上げていく20世紀型の巨大プロジェクトと大きく異なる点です。
前野さんは「幸福学」について。一見、とても胡散臭げな名前ですが、巷にあふれる幸福についてのさまざまな話とはまったく異なります。前野さん自身がコンピューターやロボットを専門とするエンジニア出身であるため、工学的なアプローチで幸福の正体を解き明かそうとしているのが特徴です。
物質的に豊かになって経済が成長しても、幸福度はそれほど増えていないということ。社会制度はどうあれ、貧富の差の少ない社会の方が幸福を感じる人は多いということ。人間関係、共同体との関係が良好になると人は幸福を感じること。競争や他者との比較は幸福を得られにくく、競争で勝ち取った幸福は短い期間しか持続しないこと。それから、日本人は遺伝的に不安に敏感な人が多く、幸福度が低くなりやすい、あるいは、不安を取り除くことで幸福を得ようとする傾向がある。などなど興味深いお話が続きました。
孫さんのお話でおもしろかったのは、日本のよいところは八百万の神々がいるところ、というお話でした。この言葉は、一神教と多神教の比較などさまざまな人が思い思いに使っていますが、孫さんは「受容する力」という意味で使っていました。
つまり、「八百万の神々」というのは神道の神さまのことではなく、仏教や道教、ついでにキリスト教なども外来の宗教をすべて受け容れてハイブリッドな日本の信仰に取り込んでしまうこと。それこそが、技術でも文化でも外から入るものを柔軟に受け容れてアレンジする日本らしさの源であると。そしてまた、「寛容さ」もそこに含まれます。
日本列島はユーラシアのどんつくで、太平洋から見ても黒潮に沿った島々の連なりが大陸にぶつかるところでもあります。つまり、人やモノや技術や文化、あらゆるものが四方から流されてきて溜る掃き溜めのようなところ。もともとハイブリッドにできているのが日本人なのでしょう。DNAをたどると日本人の先祖は世界中のさまざまなところから集まったことが分かるようです。縄文時代から弥生時代への変遷も、侵略ではなくゆるやかな文化の到来とゆるやかな混血によって行われたそうです。
ただ、こうした「受容力」と「寛容さ」を自分たちの強みとして意識して、生かせるようにしていかなければならないのでしょう。
前野さんは、日本社会の問題は倫理や道徳の無いまま資本主義経済が大きく成長してしまったことによるひずみではないか、ということを言っていました。欧米諸国にはキリスト教から発展した社会倫理があるが、日本には無い。戦前の社会を肯定するわけではないが、社会や経済を支える倫理の部分を築き直す必要がある、とのことでした。
実はこの話はよく言われるように「ヨーロッパが300年かかったことを、日本は100年でやってしまった」という、そのことのひずみと考えた方がよく理解できるような木がします。単純に「日本古来の道徳」を過去から探してきて据えるのではなく、精神性、倫理、生活、社会制度、経済、技術など異なる異なるレイヤー同士が整合性を得られるように時間をかけてすり合わせて行くということなのではないか、と思いました。
シンギュラリティ後の未来社会
この日は未来の社会はどのようになるか、というお話もお二人から少しだけありました。この点はもっと詳しく聞いてみたいと思いました。
「シンギュラリティ後の世界」という話が最近話題になります。シンギュラリティというのは一般的には「技術特異点」という意味で一定の条件が整うことで技術の進歩のスピードが急激に向上する、その境目の時点のことを言います。
最近は、「人工知能が人間を超えるとき」を特にシンギュラリティと呼び、それを境に社会のあり方をまったく変えてしまう革命的な技術の進歩が起きる、と言われています。肉体労働だけでなく知識労働のほとんども機械に奪われて、失業者が激増する、という捉え方をしている人もいます。
そして、シンギュラリティが起きるのは2045年だろう、という予測があります。
この日のお話から考えた未来の社会のあり方の論点、疑問点を3つほど書いてみます。
競争の無い社会でイノベーションは起きるのか
前野さんのお話で、「他者との比較、競争では幸福は得られない」というお話がありました。しかし、資本主義の常識では「競争によって社会が発展する」わけです。資本主義が社会主義に勝利したのも自由な競争があるからだと喧伝されました。
人々が競争をしない幸福な社会では社会は発展しないのでしょうか。それとも、競争がイノベーションを起こすというのは誤りで、単なるプロパガンダに過ぎなかったのでしょうか。
競争のない社会でイノベーションが起きるならば、その原動力は何なのでしょうか。
大きな政府の弊害
いわゆるシンギュラリティ後の世界と北欧型の高負担高福祉社会は親和性が高いように思いました。
つまり、今までの社会では、それぞれの人が自分の分を稼いで暮らしている。それが、公共財である機械が生産を一手に引き受け、それをそれぞれの人に分配するよう方向に変わっていく。そういう社会では、北欧型の社会制度を選ぶ方が合理的なように感じます。いわゆるベーシックインカムも、そうした社会では導入が容易かもしれません。
しかし、その場合、政府が大きくなりすぎる。政府になるのか、企業になるのか分かりませんが、ともかく分配の主体に権力が集中する。そのことの弊害はないでしょうか。
何らかの理由で分配から漏れる人はいないでしょうか。現在でも無国籍や無戸籍の人はいます。公共サービスの大きな社会ほど、そこから外れることは致命的になります。
自由が制限されることはないでしょうか。SFにあるような政府に監視される社会。あるいはキューバのような国もそれに近いかもしれません。理想郷のように感じる人もたくさんいますが、一方で政治的、経済的理由でアメリカに亡命する人も多くいます。
そうならないためには、どのような社会設計が必要でしょうか。また、もしも、そうならないとすれば、どういう理由からでしょうか。
自然環境との関わり方
実はシンギュラリティ後の世界の予測については、さまざまなところで見ることができます。肯定的あるいは楽観的な人の多くはアメリカ人(悲観的な予測をする人にもアメリカ人が多いです。少なくとも、興味を持って真剣に考えている人はアメリカ人に多いように思います。)だからかもしれませんが、彼らの予測からは人工のものと自然のものをキッカリ分けたいという思いがにじんでいるように思います。
たとえば、植物工場が分かりやすい。人間にとっては、不確定なファクターが無くなり、容易な管理で効率的に生産できる。一方、自然にとっては人間から搾取されないで済む。人間にとっても自然にとっても、よい解決方法というわけです。
しかし、日本を見ると、林業が衰退したせいで森が荒れ、土砂崩れや洪水の被害が増えた、という話があちこちに見られます。農業、つまり耕作放棄地についても同じことが言えます。
つまり、人間が関わらないことでは環境は守れない、あるいは、悪化する。そもそも、同じ地球に住んでいて全く関わらないということができるのか、という疑問もあるでしょう。
したがって、人間も含めた循環系をデザインし直すことでしか自然環境を改善できない、という考え方になります。
この場合は、自然というコントロールしにくいものを組み込んだシステムを作る必要があるので、植物工場と比べると非常に面倒で失敗も多くなります。
そうしたことを踏まえて、自然との関わり方をどのようにデザインしたらよいのか。
ついでに、土地との関わり方でいえば、定住生活と移住生活についても考えてみる必要があるかもしれません。最近から未来にかけての技術の進歩は、アドレスフリーな暮らし方を後押ししています。ただ、歴史的に見ても、定住生活者が土地を改良しようとするのに対して、移住生活者はフリーライダーになりやすい。遊牧が成立するのは、人間の経済に対して自然が圧倒的に大きいからで、現在、あるいは未来の世界では困難でしょう。
ブータンに見る理想郷を成立させる外部の存在
孫さんからブータンを訪問した話がありました。
最近は「幸福の国」として注目されるようになったブータン。国民の大部分が農業を営み、近代的な風景はほとんど見られませんが、国民の幸福度が非常に高いことで有名です。実際に、医療費と教育費は無料で、大学への進学率も非常に高いそうです。
孫さんがブータンで出会ったおばあさんは、若い頃、イギリスに留学していた非常に優れた知性を持つ女性ですが、自ら選んでブータンに戻って暮らしているのだそうです。
ただ、ブータンのような理想郷を支えているのは、「理想的でない外部」の存在ではないか、と思いました。
ブータンが医療費と教育費を無料にできるのは、インドへの売電で得た外貨があるからです。日本のODAで造った巨大な水力発電所があり、豊富なヒマラヤの雪融け水を使って発電をしています。電力が余るので、急速な経済発展で電力の足りない隣国に販売。そうして得た莫大な利益で社会福祉を充実させることができるわけです。
インドは経済発展目覚ましい国ですが、それに伴う社会のひずみも多く伝えられています。少なくとも、ブータンとは全く異なる国です。
もうひとつ、おばあさんの話を聞いたときに思ったのは、彼女とは異なる選択をした人はどこにいるのか、ということです。生まれた土地から死ぬまで一歩も外に出ない人にとっては、その土地がもっともよいところでしょうが、外の世界を知った人にとっては違います。もちろん、望んで国に戻る人も多くいるでしょうが、全員がそうだと考えることはできません。外の世界にとどまることを選ぶ人は必ずいます。
国に戻るのも戻らないのも自由に選べるわけですが、重要なのは両者が非対称だということです。国に戻らない人は一番よい場所を見つけたのではなく、こっちの方がましだからという選択をしているということです。
幸福の国はすべての人にとって幸福なのではなく、これを幸福と考えない人はここに住めないだけ、という皮肉な言い方も決して間違いとは言い切れないでしょう。
「鬼は外、福は内」というのは、人間がとても狭い世界に暮らしている時代の言葉で、悪いものは共同体の外側に捨ててしまえば済む、という考え方です。当時はそれでも大丈夫だったのですが、そうやってゴミやら油やら川や海に捨てているうちに環境汚染がひどくなってしまった。地球の規模に対して人間の数が増えすぎ、活動の範囲が広がりすぎ、世界中が繋がった時代には、鬼を追いやるべき外の世界は本来無いはずです。
しかし、そこに目をつぶって中と外を区別すれば理想郷をつくることができる。
理想郷は理想的でない外部を必要としているのではないでしょうか。世界中をブータンにすることができない理由は、それが外部を持たないからでしょう。
では、どういうデザインが必要になるでしょうか。外部は必要なのでしょうか。どこにどのように持つべきなのでしょうか。均質な共同体は異質なものを排除する力を持ってしまいます。外部との関係性だけでなく、内部のあり方についてもよりよいデザインがあるかもしれません。外部と内部があるのではなく、両方がもう一方に影響してその形が変わるのかもしれません。