汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

【おんな城主直虎】(44)母という檻

第44回「井伊谷のばら」の元ネタは、母子のつながりを描くという意味では「ベルサイユのばら」ではなく「パーマネント野ばら」ではないか。

 

いよいよ初陣を迎えた万千代。家康暗殺の企てを見破り未然に防ぎ、1万石の知行を与えられることになる。井伊谷では祐椿尼が病で倒れ、ゆかりの人々が見舞いに訪れる。祐椿尼の計らいで対面が実現したおとわと万千代だが、二人の意見は平行線で物別れに終わる。そんな中、祐椿尼が息を引き取る。

 

 

万千代大出世

武田が領する駿河田中城攻めに参加した万千代(菅田将暉)。籠城戦のため派手な戦闘はほとんど無く、徳川軍は城方を挑発するために稲を刈ったり火を放ったりといったことばかりしているが、家康(阿部サダヲ)の寝所警護が主任務の万千代はそれすら参加させてもらえない。しかし、家康暗殺の企てを察知し、負傷しながらもくせ者を捕縛するという功をあげる。

 

その手柄から1万石の知行を与えられるが、これは異例の出世と言える。この時期の家康の領地は三河遠江数十万石ほどと推定されることから、1万石を超える所領を持っているのは一握りの重臣くらいのものだ。近藤が支配する旧井伊領も数万石にはなるが、史実では井伊谷三人衆が代官として管理しており厳密には近藤の領地ではない。

 

万千代に与えられた恩賞は、手柄を立てた小姓への褒美としてはあまりに大きすぎる。徳川家の将来を担う重臣候補として処遇と考えなければならないし、そこには万千代個人の能力への期待だけでなく遠江の名族・井伊家の出身であることも含まれているように思う。

 

徳川家が遠江駿河へと拡張していくにあたっては、三河出身者ではない旧今川家臣にルーツを持つ新しいスターが必要だった。外様の家の出身である万千代を家康の側近として教育し抜擢する、というのは実は今川義元と家康の関係と同じ構図だ。人質という名目ではあるが、敵だった家の子を身近に集め、英才教育を施して親今川の優秀な武将に育てる。これが多民族を支配する広大な今川帝国の治世の根幹だった。そして、三河武士団という単一民族国家から徳川家を帝国へと脱皮させるために家康はこれに倣ったに違いない。

 

事実、前回あたりから本多や榊原の万千代に対する態度が微妙に変化をしている。そして、家康の共同経営者とも言える酒井忠次の承認が無ければ万千代の大抜擢はありえない。忠次の万千代に対する態度も明らかに前とは違っている。

 

しかし、徳川家にとって衝撃だったのは家康暗殺を企てた武田の間者が信康の従者だったことだ。つまり、徳川家の中枢、三河出身の譜代家臣にも武田の手を及んでいるということだ。

 

長篠の戦いを境に家康は武田に対し攻勢に転じるが、いざとなれば武田に寝返ろうという者が徳川家中にはいまだ多く残っている。織田信長は天下の大半を手中に収め、数年後には武田家は滅びるというのは後の時代だから分かることで、同じ時代に生きていては分からない。そして、そこらの武士には織田も武田も巨大過ぎて、どちらが大きいか正しく測ることはできるはずもない。織田に不満があれば、武田を引き込んだ方がお家のため考える者がいてもおかしくはない。実際には家康は綱渡りのような舵取りを強いられていたのだろう。

 

そして、いよいよこの緊張が信康事件へと繋がっていくのである。

 

良妻賢母という檻

おとわ(柴咲コウ)の母、祐椿尼(財前直見)が息を引き取る。最後まで娘のことを気にかけていたが、万千代に井伊家の再興の期待を滲ませるなど、正面からぶつかりはしなかったもののおとわとは意見の違いもあった。おとわと万千代の対立が解消されることを願う晩年だったのだろう。

 

井伊家の中でも不和や不信が渦巻く中、祐椿尼の存在は物語に安定をもたらしてきた。同時にそれがこの物語の限界でもある。

 

戦国乱世の厳しい世の中にあっても家族の間は信頼で結ばれている。そして、結び目になっているのが典型的な良妻賢母を引き受けたこの母である。直虎という自由奔放な女性を描きながらも、その母は儒教的な母親像に殉じなければならなかった。そこに物語の限界がある。

 

世の中にこんな完璧な母親はまずいない。母親というのはいわゆるおばさんなのだから、喜怒哀楽が無駄に多く、聞き間違いや思い込みで大騒動を巻き起こすものだ。それが人間的な母親の姿で、それを持たないのは記号でしかない。

 

ドラえもん』に出てくるのび太のママは、ガミガミと子どもを叱り、そのために秘密道具による報復の対象になる。つまり、子どもと同じレベルで扱われる。『クレヨンしんちゃん』でもそうだ。大人だって完璧な大人になりきれているわけではないのだ。それは母親も同じだ。

 

せめてこの母にも一度や二度は大活躍やひどい失敗をして欲しかったと思う。キャラ設定に迷ったら「実は怪力」とか「酔うと人が変わる」とかでもいい。

 

母親を人間に解放しなくてはならない。直虎は母にならなかったから自由であったというのでは寂しすぎる。

  

家督のゆくえ

万千代は1万石の大身になったものの、まだ元服をすることができない。通常、元服家督継承は同じではないが、「虎松が大人になるまで」ということで直虎が井伊家の家督を継いだのだから、万千代の元服と井伊家の家督継承はワンセットということになる。そして、おとわの了承がなければ万千代は家督を継ぐことができない。

 

実際には井伊家は領地を失い家臣も散り散りとなり組織としては滅びている。おとわは武士ではなく百姓の身分になっている。今さらおとわが家督を譲らないというのも奇妙な話に思えるが、封建的な時代の常識はこういうものであったらしい。

 

社稷」というのは国家と同義の言葉だが、もともとは土地の神と先祖の霊を祀る森から来ている。つまり、古代的には祖先の祀りを司るのが王であり、家督である。時代がくだるにつれて政治と祭祀は分離していくものの、家督を継ぐということには先祖代々受け継いだものを霊的に引き継ぐということだ。だから、百姓になってもおとわが家督を持ったままだし、大名のような偉い人であっても勝手に家督をすげ替えるようなことはあるべきではない。少なくともそういう昔からの慣習が残ってはいるのだろう。

 

万千代が元服できないひとつの理由として、家康が側近としてそばに置いておくため、というのはあるかもしれない。それから、万千代が元服して家督を継承したとなれば、旧井伊領の継承問題が出てくる。家康や万千代が否定したとしても旧家臣や領民からそういう声が出てくるのは間違いなく、いろいろと不穏な状況になってくる。現領主の近藤が懸念するのもそうしたところで、その問題を先送りにするためとも考えられる。

 

ところで、万千代とおとわの対立だ。先祖代々の領地を取り戻すという万千代の理屈はこの時代の武士としては正論だ。もっとも100年くらい経ってからだと不毛な大義名分論になってしまうが、今なら昔を知る家臣も領民も生きていて万千代に対する期待も大きい。一方、紆余曲折の末、名を捨て実をとったおとわにも理がある。支配者が興っては滅び、現れ消えても、その間ずっと人々の暮らしは連続している。おとわがたどりついたのはそのことで、乱世を引き起こすロジックに加担することはできない。戦国時代には特殊な考え方だが、これを認めなければここまでのドラマはなんだったのかということになる。

 

おとわと万千代がずっと平行線なのは、個人の問題ではなくイデオロギーの対立だからなのだ。さて、どうやって落としどころをみつけるのやら。