汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

【おんな城主直虎】(43)おとわ、竜宮小僧になる

第43回「恩賞の彼方に」では、おとわと万千代の目指す道のちがいは二人の行動に明確に表われる。

材木の乱伐によって山崩れが起きた井伊谷。おとわは近藤に進言して植林を行うことにする。一方、小姓に昇進した万千代は家臣たちの手柄の整理をきっかけに、家康の使いとして岡崎に赴き論功行賞の調整を見事にまとめる。数年が経ち、井伊谷の長老・甚兵衛が世を去るが、おとわたちと植えた木は確かに成長をしていた。

 

 

万千代の策、はじめて成功する

小姓に昇進した万千代(菅田将暉)は家康(阿部サダヲ)の色小姓と吹聴することで、門閥主義の先輩小姓たちのいじめを封殺する。小姓の世界に生きる先輩小姓たちと違い、万千代はずっと上の世界を見ており、目線の掛け違いがある。延々と続けるにしては小さすぎる戦いには違いない。

 

井伊の薬をだしに家康の寝所への出入りを許された万千代は、家臣たちからの長篠の戦いでの手柄の申告を一覧表にまとめる。それをきっかけに岡崎衆に目立った手柄が少ない問題に意見を求められ、家康の意を受けて岡崎へ使いに行く。一覧にまとめるだけなら事務に長けているだけだが、万千代にはそこから状況を分析しさらに解決策を献案、交渉でまとめる能力があった。事務処理が上手いというのはあくまできっかけでしかない。他の小姓たちとは目指す世界が違っている。

 

草履番時代は表でも裏でも努力がすべて裏目に出ていた万千代だが、ようやく大きな成果を出すことができた。

 

ここには家康の理解がある。万千代の才能を見抜き、失敗しても評価を下げず、若さゆえのスタンドプレーにも目をつぶり、さりげなく援助と試練を与えて万千代の成長をうながしてきた。まさしく理想の上司と言えるし、すべての上司にこうした振舞いを期待することはできない。

 

万千代は上司に恵まれたと言えるし、家康も万千代をある意味では特別扱いして期待をかけている。裏を返せば万千代がどれほど才能に恵まれていたとしても、家康に認められて初めて意味があるということになる。直虎(柴咲コウ)以前の井伊家のように大名権力からの自主自立のために暗闘していた時代とは異なるサラリーマン的成果主義だ。最悪の場合、万千代にどれだけの能力があっても家康に認められなければ埋没してしまう。何もかもが家康のさじ加減ひとつということだ。

 

新しい時代は古い時代とは異なる残酷さをはらんでいる。しかし、若い万千代はそれに疑問を抱かず対応している。古い時代を知る直虎ではこうはいかなかっただろう。南渓和尚小林薫)が井伊家再興の担い手を直虎から万千代にすげ変えたのにも、こうした時代の変化が背景にあったかもしれない。

 

百年先を生きる

一方、おとわは領主の座から離れることで新しい時代の波を直接かぶらずに生きている。近藤(橋本じゅん)のもとで領民の暮らしを改善するために奔走することは、おとわが今川から独立して守ろうとした「井伊の領主の姿」に他ならない。領主の座を手放すことで領主としての仕事ができているので不思議なものではある。

 

おとわの目線は万千代の目線ともまた違う。未来を見据える万千代よりずっと遠くを見ている。そのことが植林事業として表われる。木の成長は遅く、今、植えた木が材木となるのは50年、100年先の世代のことだ。裏を返せば、直虎や近藤が材木で利益を得られたのは前の世代の功績でもある。

 

自然から収奪する西洋に対して、日本では古くから自然との調和が重んじられていたと言われることもあるが、そうした言説は少なくともいくらかの誇張がある。

 

まさに井伊谷で起きたように、木材の乱伐で森が荒れ土砂崩れや洪水が起きたことは日本でもあっただろう。戦国乱世では、今日利益に変えてしまわなければ明日は死んでいるのだ。そして、領地の奪い合いが当たり前の世では半世紀先の子孫がずっとこの地に住んでいると想像するのは難しく、未来への投資としての植林事業にはなかなか結びつかない。

 

山や海などから得られる天然資源の乱獲を戒める言い伝えは、実は世界中にある。それは農耕開始以前の時代からの経験則によるものかもしれないが、神や悪魔のような神秘的な力を想定することで自然への畏敬の念を醸成し乱獲を防いできた。もしかすると、単に人間の技術が未熟だったために自然に介入することが危険すぎたというだけという可能性もある。

 

日本の場合は、温暖多雨で海流にも恵まれた自然の豊かさに対して人間の数が少なかったために自然破壊ができなかったという側面はあるだろう。しかし、中世以降、技術革新が進み産業が爆発的に発展する。この時代は古代以来の信仰に基づく社会構造が急変した時代でもある。つまり、自然への畏れを感じなくなった人々が必要に迫られて材木の乱獲を始めた時代でもある。

 

実際、江戸時代以降、明治、大正時代まで日本ではハゲ山が増え続ける。これは人口が爆発的に増える江戸時代以降、燃料としての薪を得るのに木を伐りすぎたためと言われている。

 

一方で、森を維持する行動も無かったわけではない。世界遺産石見銀山では、銀の精製に使う薪を得る山をローテーションさせることで乱伐を防ぐ仕組みを持っていた。石見銀山が実質的に開かれるのは室町から戦国時代のこと。まさに直虎の時代、人間の技術の力と産業の規模がはじめて自然の大きさを上回った時代のことだ。

 

もしかすると、植林によって山を育てることが定着するのは泰平の江戸時代のことかもしれない。戦国乱世と異なり、この時代の人々は100年先まで自分の子孫がこの地で暮らすことを想像できるからだ。

 

人間の一生を超える100年先まで見すえた行いというのは、人の業というより神の行いに近い。その意味では、おとわは幼い頃に誓った「竜宮小僧になる」という想いを叶えようとしているのかもしれない。

 

おとわと万千代のすれ違い

どういうわけか仲が悪いことになっているおとわと万千代。周囲が過分に気をつかってしまっていることもあるのかもしれない。

 

万千代は、井伊谷の植林にあたって助言を求められた常慶(和田正人)に代わって絵図を作成し、おとわを助けている。一方のおとわも寺や松下家を通じて薬を送り、万千代の活動を助けている。

 

両者は助け合っているが、間に人が入ることによってお互い知らないことになっている。助けるつもりが無くても助け合っているという意味では、動物同士の共生に近いかもしれない。おとわの方はわざと知らない振りをしているようだが、万千代の方は避けているようにも見える。

 

「井伊家」という言葉を使ってしまうと二人の目指すところの違いがぶつかり合ってしまう。しかし、本来、二人の視線の向きは次元がまったく異なっており、決してお互いの目的を邪魔するものではないはずだ。そのことにまだ二人は気づいていないし、気付くためにはお互いをもっとよく知ることが必要なのかもしれない。

 

物語の終盤は、おとわと万千代が互いの真意を分かり合うことがテーマになりそうだ。