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【おんな城主直虎】(35)戦争と平和

第35回「蘇りし者たち」では、戦争の悲惨さが語られる。

 

虐殺が行われた気賀で、龍雲丸はただひとり瀕死の重傷で助け出され、次郎法師たちの介抱によって息を吹き返す。徳川の大沢攻めは激戦を極め、井伊家に仇をなした鈴木重時は戦死、近藤康用は重傷を負う。次郎は、鈴木のために経をあげ、近藤の怪我の治療をすることになる。大沢を降した家康は、極秘に今川氏真と会談。その結果、今川は城を去り、徳川が遠江を平定する。

 

 

戦争の悲惨さを描くということ

英雄叙事詩の陰に隠れた戦争の暗部を描いた回。戦国の底層に生きる弱い人々、虐げられた人々の側に立って時代を描いてきた『直虎』の真骨頂とも言える。

 

気賀の堀川城では、大沢派と龍雲党の争いのさ中に徳川軍が乱入し、敵も味方も無い乱戦の中で兵士も民も見境なく皆殺しにされる。虐殺の唯一の生き残りとなった龍雲丸(柳楽優弥)だが、仲間を失った喪失感と自分だけが生き残った罪悪感に苛まれることになる。

 

井伊に災厄をもたらした三人衆のうち、鈴木重時(菅原大吉)は大沢攻めで戦死し、まだ少年の息子が跡を継いで戦場に向かうことになった。近藤康用橋本じゅん)は一命を取り留めたものの脚に障害の残る重傷を負う。次郎法師柴咲コウ)は井伊の当主としては遺恨を持つ相手に対し、尼僧の立場では寄り添い助けることになる。武士という世俗の地位は敵味方に分かれて表層を見せようとするが、そこから離れることで世の底層に潜ることができる。そこから見える世界というのは勝ち負けではなく、戦争のむごたらしさだけになる。

 

気賀の大虐殺を行った酒井(みのすけ)は、これを必要な厳しさだと言う。その後、ただちに大沢(嶋田久作)が降ったことを見れば、酒井の策は成功だと言える。しかし、厳しさで片付けるにはあまりに人道にもとる行為だ。現場から遠く離れて弾も矢も飛んで来ず血の臭いもしない場所で、テキストからなる情報を読んで判断するなら、酒井の策は厳しくも効果的であると言うのは簡単だ。それを以て自らの冷静さと勇敢さを謳うとしても、実際には人が死ぬところを見たこともなければ想像することすらできないのだから臆病者の戯れ言に過ぎない。

 

酒井は戦国武将として現場の惨状を目撃したし、家康(阿部サダヲ)もそれを想像することができた。しかし、現代を生きる我々は、描かれなければ、それがあることに気付くことすらできないのだ。

 

次郎法師と井伊家は今まで大勢の親族を失ってきたが、今回の戦役では政次(高橋一生)のおかげで井伊家に連なる人は誰も死なずに済んだ。それでも、今までに無いトーンでこの戦争の悲惨さは描かれている。つまり、これは家族を失った悲しみではなく、より普遍的な戦争の悲しさの描写になっているのだ。

 

しかし、この打ちひしがれた戦後の状況のもとで、方久(ムロツヨシ)は薬に新しいビジネスチャンスを見出す。彼もまたこの戦争で多くを失い心に傷を負った者ではある。しかし、どん底から這い上がったこの男は、戦争の痛みから学んだものを銭のタネに変えるたくましさを持っている。殺伐とはしているが、これも戦争の後に芽を出した希望の光のひとつであるかもしれない。

 

次郎はこの時間を通して政次を失った悲しみを癒やされていく。龍雲丸を死の淵から助け、死んだ鈴木と生き残った近藤のそばに立って尽くすことによってだ。しかし、それは戦争の悲惨さと世の無常を噛みしめる行為で、本当は癒やしではなく諦めでしかないのかもしれない。

 

それでも、仏道では手放すことが悟りへの道だという。それは、簡単に受け入れられるものではないが、次郎の心に何らかの変化を与えたのかもしれない。

 

運命の人

この状況に秘かに心を痛めていたのが徳川家康だ。戦をしたいのではなく「戦をせねばならぬように追い込まれる」のだと言うが、それを避ける才能が家康にはどうやら備わっている。しかし、それが上手くいかないのは、彼には簡単に分かることを誰も気付かないし、しようともしないからだ。それは、天才ゆえの苦悩である。そして、彼の力が弱く小さいことの苦しみでもある。

 

家康は氏真(尾上松也)に和議をもちかけて、この戦争を終結させる。家康は空き城を拾う。今回も空き城を拾った。多くの場合、それは幸運の結果のように思われているが、実は今回と同じように彼が仕組んだものであるらしい。そして、天下を取るまで空き城を拾うことを繰り返す。それが戦争を避ける最良の方法だからだ。

 

氏真は「戦争ではなく蹴鞠でもめ事を解決すればよい」と言う。お花畑のような理想論であることは、言った本人も含めて誰もが分かっている。しかし、家康は自分が作りたいのはそうした世なのだと気付く。

 

戦国大名としての今川家は亡び、氏真は妻の実家の相模・北条氏を頼る。後に北条が亡ぶと氏真は品川と姓を変えて家康に仕え、子孫は旗本として幕末まで続いたという。

 

家康は氏真に好意を持っていたのだろう。辛酸をなめたとされる駿府人質時代も、家康にとってそれほど悪い思い出ではなかったのかもしれない。後に家康は駿府に居城を移し、江戸に幕府を開いた後も、駿府に戻って駿府で死んだ。今川家と氏真に対して家康は悪い感情を持っていなかったのではないか。あるいは、ふるさとに対する淡い感情を徳川ではなく今川に対して感じていて、それが氏真に対するシンパシーとなって彼を救ったのではないだろうか。

 

少なくとも家康は、徳川の当主でありながら徳川によい感情を持っていない。その居所の無さが今川に対する郷愁となって表れたのかもしれない。そして、彼が三河を離れて浜松に居城を移すのも同じ感情からだろう。「厭離穢土欣求浄土」というのは家康の馬印に掲げられた言葉だが、現在置かれた環境からの逃避願望をはらみながら、どこまでも理想を追い求めていくという家康その人の姿をよく表しているのではないか。

 

家康は生涯、徳川家臣団に手を焼き続ける。彼らは勇猛さと愚直さで世に恐れられ、家康を多いに助ける一方で、彼をひどく傷つけ心を悩まさせることになる。それで家康は自分と同じように考える者を傍に置きたいと思ったのだろう。戦を避け、人が死なずに済むように、知恵を絞ってあらゆる手段を尽くす者を。

 

そして、それはかつて政次が井伊を守る策として直虎に語った言葉と同じだ。直虎と政次と同じ思いを家康も秘かに抱き、同志を探し求めている。だから、家康が求める者は直虎の心と政次の知恵を受け継いだ者でなければならない。運命はこのときすでに定められていたのだ。