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【おんな城主直虎】(27)直虎、湖に城を築き出る杭になる

第27回「気賀を我が手に」では、ついに井伊が気賀を手に入れる。

 

方久の策で、直虎は気賀の城に大沢ではなく井伊が入れるよう画策。方久は今川重臣・関口を懐柔する。龍雲丸は気賀の城普請を自ら請け負い、湖に浮かぶ不思議な城を造る。大沢が軍事と普請の負担で困窮しているのを察した直虎は、方久を通じて大沢を説得。武田義信の自害で意欲を失った氏真の許可も得て、直虎が気賀の城に入ることになった。

 

 

堀川城

「気賀の城」として登場する堀川城は、都田川が浜名湖に注ぐ河口部、ちょうど気賀の対岸のあたりにあった城だ。近くには刑部城もあることから、統治の拠点としての城というよりは砦のような小規模な城だったのではないか。

 

城は干潟の中にあり、満潮時には城への道が水没してしまったと言われている。戦国期の砦としては特異な城で、古典的な武士よりも龍雲丸(柳楽優弥)のような海賊的商人が築いたと考えた方がしっくりするようでもある。立地から言っても、船を操る者が近隣の水上交通を監視するための砦のようにも見えなくはない。

 

城は気賀と井伊領、浜名湖東岸の引間方面にくさびを打つように立っている。今川の築城だとすれば、国外の敵から気賀を守るための城というよりも、国内の混乱に備えた城のようにも見える。あるいは、今川家の戦略ではなく、もともとは在地の勢力が自らの権益を守るために築いた城のようにも見える。

 

本来どうであったかは分からないが、この城は後に今川と徳川の戦いに巻き込まれることになる。三河から遠江に入るには、浜名湖の北と南のルートがあったが、北を行く本坂越の方が大軍を運用するには容易だったからだ。

 

ちなみに堀川城は井伊氏ではなく地元の土豪・新田氏が城主を務めたという説が有力のようだ。ただし、瀬戸方久ムロツヨシ)を城主とする説もあり、劇中ではこちらを採用し、気賀の城に井伊が入ったとしている。

 

 今川の凋落

井伊は大沢(嶋田久作)に代わって気賀の城に入ることに成功する。無血でひとつ勝ったようなものだ。

 

直虎(柴咲コウ)の施政方針は今までの町衆自治を温存することだが、方久の言うように気賀の代官となったことで儲け口はいくらでも作ることができる。そして、井伊領の防衛を考えてものど元の気賀に今川に近い武将の進駐を阻止できたのも大きい。

 

氏真(尾上松也)に忠誠を誓うことで西遠江随一の勢力に急成長したかと思われた大沢氏だったが、内実は度重なる普請と軍役、さらに近隣の砦の維持負担などがかさんで経済的に疲弊していたようだ。

 

地元の国衆である大沢が気賀の財力とそこを治めることで得られる利権を知らないはずがない。気賀をとれば軍事的にも経済的にも近隣の武士を圧倒することができただろうに、そうする気力すら無いほどに疲れている。

 

このことは今川氏の凋落の実態をよくを表している。遠江では、ある者は徳川に通じて滅ぼされ、ある者はその戦いの中で力を失い、残った者もいなくなった者の分まで負担を強いられ疲れ果ててしまっている。

 

今川の中枢でも側近の関口(矢島健一)が方久の賄賂で簡単に転んでしまうなど家中の統制は乱れている。そして、氏真は義弟である武田義信の死によって完全に政治的意欲を失ってしまう。

 

氏真にとって、武田、北条との三国同盟は政略結婚を通じた外交関係以上のものがあったのだろう。妹婿である義信は、兄弟であり信頼できる同世代の同志だったのだ。その意味では、氏真の見る戦国大名・今川氏とは家族の拡張だったのだろう。それは、原始的かつ伝統的な武家のあり方で、いわば私の存在だ。父・義元が祖母・寿桂尼とともに、苦心してそれを法人型の公の存在に脱皮させようとしてきた流れに逆行している。

 

いずれにしても、今川は内側が虫に食われて洞になった巨木のようになってしまっている。

 

さて直虎は気賀を手に入れたが、これは後戻りができない一手だ。これまで死んだふりをしていた名族・井伊氏がいよいよ戦国の表舞台に戻ってきたような印象を周辺の勢力に与えるだろう。そして、形の上では今川の代官として気賀に入った。これは、今川の力が衰える中では危険なことだ。そして、地政学上、気賀は今川と徳川が衝突する仮想戦場でもある。

 

近く訪れるであろう今川氏崩壊の危機に、直虎はどう動くだろうか。