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【おんな城主直虎】(7)直親はサイコパスなのか鈍感男なのか

第7回「検地がやってきた」では、直親と政次の心理戦が繰り広げられる。

 

直親としのが結婚。自分から振ったはずなのに、失恋から立ち直れない次郎法師。一方、直親の妻・しのは、直親と次郎の仲を疑う。

 

今川は直親帰参の交換条件として井伊領に検地を入れる。直平がつくった隠し田がばれないように画策する直親。素直に協力を求めない直親に疑心暗鬼になる政次。駿府の瀬名から、検地奉行の懐柔情報を入手し、隠し田に走る次郎。

 

結局、隠し田はバレるが、政次の申し開きで不問となる。

 

 

検地はただごとではない

検地は豊臣秀吉による太閤検地が有名だが、それ以前からあった。武士の経済基盤は大部分を農業に依存しているので、農地とその収穫高を確定させることは行政の基本ということになる。

 

検地には大きく二つの目的がある。ひとつは、農地の収穫高に基づいて徴税額(年貢)を確定させること。もうひとつは、徴税額をもとに軍役、夫役を確定させること。軍役は基本的には戦に参加する義務。収入が多い武士ほど多くの兵士を引き連れていかなければならない。夫役は土木工事などを請け負う義務を言う。

 

井伊領は、井伊谷を中心とした半径2~3キロほどの中に散在する集落と農地で構成される。その中には、井伊本家の直轄領と家臣の所領、竜譚寺などの寺社の経営のために寄進された農地などが含まれている。

 

いずれにしても、ここから上がる収穫は井伊氏に年貢として納められ、大名である今川家には入らない。しかし、井伊氏に賦課する軍役を正確に賦課することは今川にとって非常に重要だ。

 

一般的には、井伊氏のような国衆は少なめに申告して軍役負担を軽減しようとするので、今川サイドはそこをチェックする。事実、直平(前田吟)は隠し田を設けていた。検地とは、いわば査察が入るようなものだ。

 

ちなみに、井伊領の石高は2万石という今川氏の資料が残っているらしい。その石高に基づく兵士の動員力はおよそ5~600人ほどになる。

 

なお、直平の隠居地で隠し里のある川名は、井伊谷の北東にある。井伊氏が決戦用の山城を築いたという峻険な三岳山の裏側になるので、直線では3キロほどだが、実際に道をたどると5、6キロほど山奥に入らなければならない。万が一のときは、井伊谷を捨てて川名に逃げ込みゲリラ戦をやる、という直平の戦略もうなずける。

 

検地といっても、通常は指出帳を出せば済む。確定申告である。大名の直轄地であればともかく、国衆の支配する領国ではチェックは甘くなる。実際に農地の大きさを測るところまでは、普通やらない。井伊氏に対する行政権の侵害になるからだ。

 

平安時代の荘園にも「不入の権」という特権があった。これは、国司が農地を確認するために荘園に立ち入るのを拒否する権利のこと。つまり、検地のために(主君であっても)他人が領地に立ち入るのは、伝統的に武士が嫌がるデリケートな問題だったということだ。

 

したがって、今川としても簡単に井伊氏の領地の検地を行うことはできない。直親帰参の交換条件ということにしなければ、できなかった。そして、井伊氏にとっても自領に今川の介入を許すという重大なできごとだったのだ。

 

南朝の皇子

隠し田を見つかった政次は、「南朝の皇子のためのもの」という言い訳をする。この「南朝の皇子」とは、宗良親王のこと。井伊氏の歴史を語るには避けて通れない人物だ。

 

宗良親王は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇の皇子。建武の新政が崩壊し、南北朝時代になると、形勢不利の南朝後醍醐天皇は全国に皇子を派遣して挽回を図る。宗良親王は、東北地方を目指して伊勢から船で旅立つが、遠江国に漂着し井伊氏のもとに身を寄せる。

 

平安時代からの遠江の名族だった井伊氏は親王を奉って、北朝方の足利一族と戦うことになる。結局、井伊氏は戦いに敗れて没落。足利一族の守護のもと、「足利に逆らった一族」として肩身の狭い思いをすることになる。そして、自立の道を模索しながらも、今川氏の支配に組み込まれて現在に至る。

 

足利一族である今川氏に対する井伊氏の反感も、もとをたどれは南北朝時代までさかのぼれるのだ。

 

宗良親王は、井伊谷陥落後も北陸や信濃を転戦。拠点とした信濃で没したという説が有力だが、井伊谷にはこの地で親王薨去したという伝説があり、墓所もある。

 

親王墓所は竜譚寺の裏手にあり、現在は宮内庁が管理している。隣りには井伊谷宮という神社があり、親王を祀っている。

 

他にも、親王が戦闘で足を負傷したが、寺の観音像が身代わりとなり、怪我が一夜で回復した、という伝説も残っている。

 

直親と政次の心の距離

直親(三浦春馬)の性格は複雑だ。

 

直親の言動は相手を操ろうとしているように見える。時には、相手の求める感情と言葉を与える。時には、相手の立場で利害や大義名分を先回りして説いてみせる。あえて相手に選択を委ねることで相手の行動を縛ることもする。その結果、他者を陥れることもある。そして、そのことに罪悪感を抱かない。

 

豊臣秀吉のような稀代の英雄だったり、連続殺人鬼のような極悪人に見られる天性の人たらし、完全犯罪者の資質だ。

 

政次(高橋一生)にはそう見えている。大多数の善良な人々はだまされても、幼い頃から感情を押し殺し、裏と表を使い分けて生きてきた政次にはよく分かる。

 

直親が隠し田の差出帳を持ってきたときも、政次の置かれた立場に理解を示した上で、最後は政次がどうするか、選択を委ねる。しかし、委ねられた政次は隠し田を隠し通すことを選ばなければ、裏切り者になってしまう。

 

「なぜ『自分を助けてくれ』と言わないのか」と政次は思う。直親は自分の心の底を決して開いて見せない。

 

そして、隠し田が見つかったときも、「自分は新参者なので詳しく分からない」と際どく逃げ、政次を窮地に陥れる。

 

一方で、直親は女性の心理にはまったく鈍感だ。しの(貫地谷しほり)を安心させようとも欺こうともしない。女性を巧みに味方にできないのは、サイコパスとしては致命的な欠陥だ。

 

そこで、直親は本当に悪意の無い無垢な好青年という見方も出てくる。それが、天才的犯罪者のように見えてしまっている。あるいは、無自覚な振る舞いが周囲を振り回してしまう魔性の星の下に生まれたのか。

 

それとも、彼の悪魔の天才性はとても偏った形で発現するのかもしれない。ある種の天才は、盲点のように意外な能力が欠落していることがある。

 

直親の本性がまったく分からなくなってきた。しかし、いずれにしても彼のそうした資質は、謀反人の子として国外に逃げ、親も友達もいない他国で大人に囲まれて育ったストレスの多い環境によって生まれたいびつな性質であることに間違いはない。誰も信用できない中で、本当の心は絶対に見せずに、知らない大人に気に入られるような言動が無意識にできる術を身につけたのかもしれない。

 

政次は、そんな直親に子どもの頃のように本心を開いて接して欲しいと思っている。彼は裏表のある人物だが、そのことに極めて自覚的だ。悪人を自認しているが、罪悪感は誰よりも強く、そのことに常に傷ついている。

 

だから、時折、次郎法師柴咲コウ)には本心を話す。しかし、冗談のようにオブラートに包まないと、それができない。

 

そして、直親を疑うたびに、疑う自分を責めている。

 

次郎法師のモラトリアムが終わるとき

直親は井伊谷を離れて、しのとともに祝田に屋敷を構えることになる。祝田は現在の金指駅の南側、都田川のあたり。井伊谷からは約2キロ。おそらく井伊領の南の端と思われる。十分「通勤圏内」だが、井伊領の外縁部であり直親が「遠い」という印象を受けるのもうなずける。

 

そして、瀬名(奈々緒)と竹千代改め松平元康(阿部サダヲ)の縁組みも決まる。今川氏にとっては、三河松平氏を今川親族に組み込むための政略結婚だ。しかし、駿府に居場所が無く、なぜか次郎法師だけを心の友としている瀬名が、今川に好ましくない方向へと運命を大きく動かすことになるのだろう。

 

時代は着々と動き出している。直親と政次も大人の世界で揉まれている。しかし、次郎法師だけはまだ「子どもたちのレイヤー」に居残って、狂言回しの役回りに甘んじているようだ。

 

時計の針は進み、誰もが知っている「桶狭間の戦い」が彼らの前に迫って来ている。

 

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