汽水域 Ki-sui-iki

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【おんな城主直虎】(38)去りゆく龍雲丸と居残り氏真

第38回「井伊を共に去りぬ」では、龍雲丸が堺に去り、成長した虎松が登場する。

 

武田軍に火を放たれ井伊領の村々は焦土と化す。南渓和尚は信玄との直談判に赴き、おとわと近藤は武田を欺きながら井伊谷を守ろうとする。そんな折、信玄が急死。武田軍は去り井伊領の復興が始まる。龍雲丸はおとわを残し、ひとりで堺へ向かう。2年後、直親の法要が営まれ、成長した虎松も姿を見せる。

 

 

去りゆく龍雲丸

武田の禍が去り、龍雲丸(柳楽優弥)とともに堺へ旅立とうとするおとわ(柴咲コウ)。しかし、そこに信玄死すの報が飛び込んでくる。おとわの心が井伊に残っていることを悟った龍雲丸はおとわを残して堺に旅立つ。

 

龍雲丸の判断は厳しい。幼い頃から竜宮小僧として生きてきたおとわには自分が無い。自分のための人生を取り戻すには堺に行かなければならない。無理にでも井伊を断ち切って、井伊ではない場所に行かなければならない。それでも、龍雲丸はおとわを置いていくと言う。

 

龍雲丸の仲間は、根無し草ばかりだった。この世のあらゆる縁を絶ちきられ、他に身の置き所の無い者ばかりだった。現在よりも濃厚な縁が縦横に張り巡らされていた時代にあって、無縁の者というのはある意味、人ではない異形の者だったのだろう。縁に満ちた農村社会と縁の外側にある商人の世界には厳しい断絶がある。この世に縁の残っている者をあちら側の世界に引き込むことに躊躇が働いたのかもしれない。

 

それとも、おとわの中心にずっとあった井伊への思いが無くなってしまったら、おとわがおとわでなくなってしまう、と思ったのかもしれない。おとわは井伊から出て生まれ変わることを望んだが、生まれ変わったおとわは龍雲丸が惚れた元のおとわではない。

 

龍雲丸は籠の鳥であるおとわを自由な空に逃がしたいと願ってきたが、籠の外に出た途端にその鳥は死んでしまう。人はひとりで生きるのではなく、縁によって形づくられ生かされている。それでも、縁の中に縛られてそこから抜け出せないことは悲しい。そして、龍雲丸のようにあらゆる縁を失っても人は生きていけるものでもある。しかし、おとわは宿命の中で生きることになった。

 

選ぶことは枝を折ることだ。堺で自由に生きるはずだったもうひとりのおとわは死んでしまった。しかし、そのためにいなくなるはずだった井伊で生きるおとわは、死なずにここで生きることになった。

 

堺に逃げた中村屋本田博太郎)は、江戸時代には気賀に戻って町役人として続く。龍雲丸も気賀との縁が切れたわけではないだろう。堺といえば徳川家康の伊賀越えがある。まだまだ先のことだが、家康と井伊の跡を継いだ直政(菅田将暉)の危機を救うのは龍雲丸かもしれない。

 

 

居残り氏真

今川氏真尾上松也)は祖母・寿桂尼浅丘ルリ子)をしのんで笙を吹く。武田軍がまだ三河に駐留しているというのに呑気なことだと田舎者の三河武士たちは言うが、氏真にとっては大切なことだ。人間は物質だけは生きられない。特に都市化して形而上に拡張した人間が生きるためには物質ではないものが必要なのだ。しかし、戦争は世界を物質のみのものに還元しようとする。つまり、氏真にとってこれは武器を用いない戦争に対する戦いなのだ。

 

そして、直後に信玄(松平健)が急死する。これが寿桂尼の呪いだったのかは定かではないが、氏真が信玄を呪殺したかのようにも見えてしまう。

 

どうやら家康(阿部サダヲ)はこの無産貴族の青年を嫌いにはなれないらしい。分不相応な大大名の当主の座を降りてから、氏真その人が天分として持つ魅力がいかんなく発揮されているようでもある。

 

普通のドラマでは戦国大名今川氏が滅びたところで氏真は表舞台からフェードアウトしてしまう。しかし、その後も氏真の人生は続いていく。草莽から下克上で高い地位にのし上がる男の人生がドラマになるのであれば、そこから転げ落ちた男のその後の人生も描かれていい。

 

「いつまでいるんですか」と言われながら、氏真が最終回まで出続けることになるのだろうか。次々と男たちが死んでいく『直虎』で、おとわを最後まで伴走するのは意外にもこの男かもしれない。