汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

リビング・エニウェアを読み解く 都市の発展形と共同体の再構築

リビング・エニウェアというバズワードを軸に、これからの課題を整理してみました。リビング・エニウェアとは、土地や土地に関連付いた設備や機能などに縛られず、主体的に選択しながら世界中の住みたい場所に住んでいく、といった考え方です。

まず、リビング・エニウェアが都市の拡張であることを示し、そこから派生する問題が都市と農村の間の既知の問題の発展形として予測します。そして、それらの問題の論点を整理していきます。

 

 

都市の発生と飽和 神宮の阪神ファン 小沢健二

都市の発生から考えていきます。中世、武士や農民は土地を経済基盤にしていました。一方、流通に携わる商人や手工業者は必ずしも土地に縛られていませんでした。そうした土地に縛られない商工業者が、川の中州などの誰のものでもない土地に集まって市を立てたのが都市の始まりだと考えられています。

都市は農村から溢れ出した人々を収容し、富の力によってさらに人々を惹きつけていきます。そうした流れは江戸、明治を経て戦後まで続いていきます。

同時に都市には「縁を切る力」を持つ場所としての性格もありました。つまり、土地を介した地縁血縁にがんじがらめに縛られた農村の暮らしから人々を解放する力です。都市は、過去を断ち切って新しい人生を始める場であり、能力を自由に発揮する場であり、個人としてのアイデンティティを確立する場でもあったわけです。

 

もっとも、都市生活においてもある種の縁が発生していきます。封建的な社会では、都市の住民は職能による共同体の中の主従関係、師弟関係に組み込まれていきます。企業もまた、武士や農民の共同体を模した強い封建的な共同体を形成していきます。年功序列、終身雇用の昭和期の企業はそうした傾向が顕著でした。さらに、新興宗教も戦後の都市膨張期に農村から都市へ移住した無縁者を共同体に収容する機能を果たしました。たとえば、創価学会の信者の年齢・居住地傾向を見れば、それは明らかでしょう。

そうした縁によって人々の関係を固定化する力に抗って、関係を撹拌する作用をもたらしたのが、それを上回る人口流入の力だと言えるでしょう。都市は継続的な人口流入による流動性によって、都市としての生命を保つことができるのだと考えられます。

 

しかし、平成に入ると日本の大都市は飽和期を迎えます。都市への流入人口が増加が頭打ちになるのに対して、都市流入者の二世、三世の比率が増え、都市の地元化が始まります。

東京以外の大都市ではこの傾向が顕著に現れます。周辺地域から都市へ向かう人々を収容する能力を東京に奪われ、流入人口が減少します。そして、都市の地元化が促進され、東京一極集中へ向かいます。

神宮球場阪神ファンが増加したことも、このことに符合しています。従来、大阪に収容されていた関西圏の若者が東京へ向かうようになりました。すでに彼らは東京近郊に住居を構え、二世、三世の時代になっています。東京生まれの彼らが阪神タイガースを応援するのは、それが民族としてのルーツを表わす宗教だからであり、これをエスニックな移民文化と考えることもできるでしょう。

 

他の都市から流入人口を奪うことで都市としての性質を維持していた東京も地元化を逃れることはできません。ゆるやかに長く続く不況の影響で、地方の高校生が東京の大学へ向かわなくなったことも拍車をかけます。慶応大学、早稲田大学の入学者のうち、7割が首都圏の出身者なのだそうです。

東京を地元とする若者が増え地方からの流入者が減ることで、東京にエネルギーとダイナミズムをもたらしていた流動性が失われていきます。

60年代以降、日本のサブカルチャーは地方から東京へと流入した若者が主役でした。しかし、90年代に入ると小沢健二に代表されるシブヤ系が登場してきます。これは東京の文化的地層を堆肥として育った東京生まれの若者たちの爛熟した文化と言えるでしょう。同時に東京が文化的衰退期に入ったことを示唆する現象ともとらえられます。

 

アジール性の喪失 都市の概念と実装 脱出運動としての地方創生

さて、飽和期に入った東京は人々に自由をもたらすアジール性の魔力を失い、地縁血縁の影響を強く受ける農村的な社会になってしまいました。都市の若者が地方へ向かう動きも、かつて東京が担っていたフロンティアを地方に夢見る行動と解釈できます。ただし、地方は東京以上に農村的な社会であること、そして、東京への流入が分散から集中だったのに対して、地方への流出は集中から分散であるため、強い引力を帯びる集中のコアができにくいこと、などの原因によって、地方への逆流の動きは雪だるま式の加速度を持てないでいるように思います。

リビング・エニウェアもそうした都市からの脱出運動のひとつの現れだと理解できます。もともと土地との縁が持たない人々が都市を発生させたことから分かるように、概念としての都市は土地を必要としません。ただし、それを現実世界に実装するためには平面上の座標が必要になり、土地との関係を持たざるを得ません。本来の、農村の対極に位置し、土地との関わりを断ち切る都市という運動を、概念として純化させ再構築しようとするのが、リビング・エニウェアという考え方ではないでしょうか。つまり、土地の呪縛に取り込まれてしまった都市から脱出することによって、概念としての都市を完成させようとする運動だということです。

 

リビング・エニウェアが都市の発展形であるとするならば、そこから派生する様々な事象、あるいは解決すべき問題も、すでに私たちが知っている都市と農村の関係から推測することができます。

 

供給と消費 マッドマックス 地産地消

都市と農村は、消費と供給の相互依存関係にありました。巨大な都市の人口を支えるためには、食糧を中心に農村からの供給が不可欠でした。一方、都市の交易機能と技術や文化の集積機能は、それらの伝播という形で農村にも恩恵を与えました。

しかし、両者は対等な関係ではなく都市に農村が従属する形になりました。そして、都市は膨張するにつれて、物資の供給地を遠方に拡大していきます。現在では外国から輸入した品物の方が輸送コストを上乗せしても国産品よりも安いのが当たり前になっており、都市に対する供給地は地球規模で広がっています。それに伴って、都市近傍の農村は供給者としての仕事を失います。現在の日本の地方の疲弊は、都市への従属の結果ではなく、さらに進んで、供給地としての立場をスポイルされた結果と考えられます。

リビング・エニウェアが都市の概念を拡張したものであるならば、都市と農村の対立軸から生まれる諸問題を引き継いで解決していかなければなりません。

生産者と消費者のパワーバランスについては、紀元前から人類が取り組んでいる課題ですが、生産者により大きな力を与えることには成功していません。『マッドマックス』のような資源が非常に乏しい世界でしか実現はできないのかもしれません。

グローバル経済への対立軸として「地産地消」という概念が出てきました。これは狭い地域の中で生産-流通-消費を行うことで、地域内で自立的に経済を循環させるというものです。第一の目的は域外へのマネーの流出を防ぐことにあります。そして、流通に伴うエネルギーコストを削減することで地球規模の気候変動に繋がる炭酸ガスの排出を抑制すること。さらに、トレーサビリティ、つまり商品の生産・流通履歴の透明化を容易にすることなどの利点があります。一方で、域内に閉じた経済は、閉鎖的、排他的な行動を生みやすく、選択の幅を狭める恐れもあります。その結果、域内のイノベーションを阻害し、域外との関係性を不安定化させる要因になりかねません。

都市が常に供給地を必要とするように、リビング・エニウェアも供給地としての「土地に縛られた人」を必要とするでしょう。そして、居住地が自由であることは供給地に対しても強い選択権を持つことになります。それは強い自由であると同時に、対象に不自由を強いる自由でもあります。

 

多国籍企業 国家の融解 シェアリング・エコノミー

グローバル化により企業の活動も国境をまたいだ地球規模のものになっています。リビング・エニウェアはこうした多国籍企業のあり方を個人に落とし込んだものと考えることもできるでしょう。

多国籍企業は製品・サービスの販売先が世界各地にあるだけでなく、生産拠点、バックオフィスも多くの国にまたがり、資本や従業員の構成も多国籍です。創業した国や本社登記のある国では、その企業の国籍を表わすことは不可能になっています。

たとえば、かつてトヨタが世界中で自動車を販売した利益のほとんどは日本国内にもたらされ、日本で消費をされました。しかし、現在、アップルがiPhoneを販売した利益はアメリカではなく世界中の国に分配され、さらに消費を通じてそれ以外の国へも拡散されています。

19世紀の国民国家が国民を総動員して経済力と軍事力のトータルウォーを行ったことと比べると、すでに経済の面で固い外骨格を持った国家という共同体は融解しており、その役割はかつてより限定的になっていることが分かります。

多国籍企業のあり方は決して特殊なものではなく、ドメスティックな世界で生きているはずの人々の生活や経済活動も様々な形で国家の外側と繋がっています。政府が許可した数えるほどの港から外国の文物がちょろちょろと流れ込んでいた時代とは事情が違います。ある日本人と関わるすべての生産と消費を始点から終点まで追跡すれば、日本の領域を超えて、薄く広く地球を覆うように広がることでしょう。それを国家という枠でばっさりと断ち切ってしまうのはかえって不合理と言えるでしょう。

 

一方で、多国籍企業の納税回避が大きな問題になりつつあります。これは企業内で国境をまたいで取引を行い、税率の安い国に利益を集中させ、実際に事業を行っている国に税金を納めない、ということ。つまり、フリーライダーの問題です。

企業は企業単体で利益を生んでいるのではなく、インフラを無償で利用することで企業活動を維持しています。インフラというのは、ハード面だけでなく人的資源などのソフト面、さらには人類が蓄積してきた基礎的な科学技術なども含まれます。そして、その多くが土地と強い関係性を持っています。税金はインフラの利用料ではありませんが、企業は納税を行うことで企業活動を行う土地のインフラ投資に責任を持つことができます。

この問題は実は多国籍企業に限ったものではなく、生活圏が複数の自治体にまたがる「埼玉都民」や若者の都市への流出によって教育投資が回収できない地方自治体なども同じ構造の問題です。「ふるさと納税」もこうした問題に対する施策として誕生したものですが、必ずしも当初の目的通りとは言えません。

 

リビング・エニウェアによって個人が土地から自由になると、どのような方法で土地に対する責任を果たしていくかが大きな問題になります。昔から土地に対する課税は簡単で、住所が不定な者に対しては困難でした。しかし、課税を逃れ無責任に土地からの利得を受け取るためのリビング・エニウェアであるならば陳腐としか言いようがありません。

シェアリング・エコノミーということが言われていますが、所有しないことがシェアではありません。誰かの所有に依存しなければならないならレンタルです。単に固定資産を持たないことの優位性を説くのであれば、ゼロサム・ゲームを仕掛けるための外部を必要とするライフハックでしかありません。すでに我々の社会は地球規模に広がって外部を持たなくなっていますから、社会全体の利得の総和がプラスになる施策が求められています。つまり、ここではあらゆる「土地」に対して公平な「シェア」を行うことが求められているわけです。

リビング・エニウェアというのは土地との関係を完全に断ち切るものではなく、むしろ関係を持つ土地を増やす行為です。したがって、インフラとして土地の持続可能性に責任を持たなければなりません。そのための仕組みをどのように構築するかが課題となります。

 

土地を守る人 アンチ・グローバル 強大な国家の幻想

かつての都市と農村の関係がそうだったように、自由に動ける人と土地に縛られる人の間に対立構造が生まれることは容易に想像できます。この場合、都市住民も「都市」という土地に縛られた人の側に立たされます。

土地に縛られた人は、土地と自らの関係性を強調し「土地を守ること」を自らのアイデンティティとして掲げるようになります。そして、土地に関する権利を過剰に主張するようになります。彼らの行動は土地とそこに根ざした共同体への依存でしかない場合が往々にしてありますが、そうした指摘は問題を解決しません。

急速なグローバル化に対する反動からすでに世界中でこのような行動が多く見られています。そのうちいくつかはグローバル化の弊害に対する処方箋としてよさそうに見えるかもしれませんが、少なくとも時計の針を逆戻りさせるような方法は今までもこれからも成功しないでしょう。そして、このような疎外的な態度は世界を不安定化する要因になります。

土地から自由な人々は常に土地に縛られた人々の標的になります。少なくとも土地に対する公平に分担するための評価とそれを実施する仕組みが必要になります。

おそらく、ここで言う「土地」は非常に狭い範囲を意味するものになっていくでしょう。そうした小さい単位と向き合うことを求められます。一方、世界中の「土地」と「土地」はさまざまなレイヤーで、つまり自然としても社会的にも、繋がっているため、同時により大きな単位の「土地」も対象にする必要もあるでしょう。たとえば、地球規模の気候変動のようなことです。

それに対して、おそらく国家という領域的広がりはかつてほど有効な意味を持たなくなるでしょう。しかし、反動的な人々はむしろ国家を頼り集まる動きを見せるでしょう。近い未来はそうした強大な国家の幻想を断ち切り、国家という装置を21世紀にふさわしい規模の権能に導くことが求められるのではないでしょうか。

 

フラット化しない世界

都市の機能のひとつに集積があります。原料、商品、労働力だけでなく、知識や情報、文化など様々なものを集積する機能があります。そうした無形なものは集積が臨界に達すると爆発を伴って増殖する性質を持っています。つまり、集積によって新たなものを生み出すのです。こうした都市の持つ性質が人々を惹きつけ、それがまた新たなものを生み出すという連鎖的な作用を引き起こします。しかし、人々が都市に縛られず、自由に好きな場所で暮らすことを選択したとき、こうした機能は都市から失われてしまうのでしょうか。そして、どのような形で担われていくことになるのでしょうか。

 

2005年頃にトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』という本が流行りました。インターネットを介した情報技術の発達により、世界中どこにいても等時に同じ情報にアクセスすることが可能になり、地理的な障壁と格差は解消され世界がフラットになる、というものでした。それから10年、現実に世界はそれほどフラットにはなりませんでした。

その要因は様々に考えられますが、ひとつにはネットワークには乗らない情報の重要性があげられています。その多くは対面で交わされる情報、あるいは完全に言語化されていない不完全な情報などでしょう。スカイプなどのテレビ会議があっても、そうした情報はオンラインになることは無いようです。つまり、ここまで情報技術が発達しても、都市の集積機能は生き残ったわけです。

 

リビング・エニウェアも情報技術によって地理的束縛から解放されることを要件としています。しかし、どうやら情報技術がもたらす自由は不完全なものであるようです。そのときに、都市が担っていた情報の集積機能は、今まで通り都市が引き受けていくのか、別の場所に移っていくのか、どのような形になっていくのか興味深いところです。

 

 

格差の是正 シンギュラリティ 共同体を再構築する

今まで私たちの共同体は土地に束縛されたものでした。土地の束縛からの解放を目指した都市においても、地理的制約によって共同体の範囲が制限を受けました。国家の領域は地理的に表わされます。選挙区というのも別のやり方で区切っても構わないはずですが、地理的に分割をされています。そのため、地域の利益代表のような議員が選出されてしまいます。私たちは、多くの場面で土地によって分けられることを受け入れてきたわけです。

しかし、時代が進むにつれ土地による制約はゆるやかになってきており、さまざまな形の共同体が模索されてきています。リビング・エニウェアというのは、そうした地理的制約を乗り越えた新しい共同体を構築するためのものであるかもしれません。

かつての人類が共同体に頼っていた多くのことを、現代の私たちはテクノロジーで代替することができるようになりました。そのことによって、共同体に隷属することから解放され、人間らしい尊厳と自由を手に入れることができました。だからといって、共同体が不要になったわけではないようです。

 

私たちの信奉する自由経済は、格差を拡大し、さらに格差を固定化する強烈な副作用を持っています。そして、格差の固定化は社会の活力を奪い、経済を沈滞させることが分かっています。そのため、人工的に格差を是正することを必要としています。

また、シンギュラリティ後の世界では、人工知能と機械が生産活動の多くを担う社会が想像されます。そうした社会では、自分で自分が生活できる賃金を稼ぎ出すことよりも、機械が生産したものをいかに分配するかが重要になってきます。

このような再分配を行う機関を維持するために、私たちは共同体を持ち続ける必要があるかもしれません。今までこうした機能を担ってきたのは国家でした。しかし、地理的制約に強く縛られた国家がこれからもこの機能を担っていくことは、様々な弊害をもたらすかもしれません。あるいは、現在の国家の規模感が不合理になってくることもあるかもしれません。トータルウォーのためにボリュームメリットを求めて拡大した国家の規模はすでに妥当性を失っており、もっと小さい共同体やより大きな共同体が必要とされるようになるのかもしれません。あるいは、地理的要因によらないまったく別の共同体が取って代わるかもしれません。