汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

『日本のいちばん長い日』を見比べてみた

『日本のいちばん長い日』は、1967年の映画。監督は岡本喜八東宝創立35周年を記念してオールスターキャストで製作された。リメイク版の監督は原田真人。2015年の終戦70年を機に公開された。

 

 

原作は1965年の半藤一利による同名ノンフィクション。当時、半藤は文藝春秋社の社員だったため、名前を伏せ「大宅壮一・編」として発刊された。96年には「半藤・著」として『完全版』が出た。そのため、岡本版では「大宅」、原田版では「半藤」がクレジットされている。

物語の中心になるのは、1945年8月14日正午から終戦玉音放送が流された翌15日正午までの24時間のできごと。原作では、1時間ごとに章がたてられ、一世を風靡した海外ドラマ『24』のような趣きがある。

 

1962年の岡本喜八

なぜモノクロなのか

岡本版はモノクロ。原作にならって、8月14日にいたるまでの過程を長い長いプロローグとして見せ、タイトルをなかなか出さない。

7月26日に連合国側よりポツダム宣言が出されたことを受けて、内閣が会議を重ねる場面から始まる。ポツダム宣言は日本に無条件降伏を求めるもので、国体護持、つまり天皇制の維持の保証が無いことが問題とされた。

すでに東京大空襲沖縄戦を経て日本の敗色は濃厚になっており、いつどのような形で戦争を終結させるかが政府の課題になっていた。しかし、陸軍上層部は、攻撃側の損害が大きいとされる本土上陸戦で米軍に大損害を与え、有利な条件での講和に持ち込むべきと考えて、早期の終戦に抵抗していた。

会議が空転する間に8月となり、広島と長崎に原爆が投下されソ連が不可侵条約を破棄して参戦する。絶体絶命の事態になっても政府は結論を出せず、最後には「天皇の意思」という形で日本は終戦に向かう。

岡本喜八豊橋陸軍予備士官学校終戦を迎えており、多くの戦友の空襲による死を目撃している。そのときの経験が岡本の作風に強く影響を与えているのは間違いない。後のインタビューでは、この作品が前戦の兵士や民間人の惨禍をまったく描いていないことに不満を漏らしていたという。

プロローグには戦争の被害を伝える多くの資料写真が差し込まれ、戦争の惨状を伝えようとする岡本の必死の努力が伝わってくる。会議を中心とした映画の中で、いかに戦争の狂気と悲惨さ、暴力性を折り込んでいくかが全編を通じたテーマになっているように思える。モノクロのフィルムを選択した理由は、血を流す演出の凄惨さを和らげるためだったかもしれないし、白黒の資料写真を自然に差し込むためだったかもしれない。

 

語らない三船敏郎

物語の前半は、プロローグに引き続き遅々として進まない会議の様子が描かれる。当初、の予定では、夕方には連合国側に宣言受諾を伝え、夜には国民向けに玉音放送が行われるはずだった。しかし、細かい文言の調整に手間取り大きくずれこんでしまう。

玉音放送の録音は空襲警戒の間隙を縫って行われるが、このとき襲来した米軍機は埼玉県の熊谷を空襲している。分かりにくいが、情報の断片を繋ぎ合わせれば6時間の遅延のために失われた命があったことが分かる。

すべて終わった後に志村喬演じる下村情報局総裁は、こうした儀式めいた手続きも大切だという。これは日本帝国の葬式なのだから、というのがその理由だ。真を突いた言葉ではあるが、多くの人命が失われた前では苦い味のする言葉でもある。

会議の空転は三船敏郎演じる阿南陸軍大臣の抵抗によるところが大きい。陸軍を代表して強硬な主張をし、和平を妨げる悪役だ。常にいかめしい表情を作っているため、考えも読めない。しかし、最後に阿南は鈴木首相と東郷外相に非礼を詫びて去り、今までの振舞いが陸軍の青年将校の暴発を抑えるためだったのではと思わせる。ただし、阿南は自らの口で本心を語らない。実際には、主戦派か和平派かでは割り切れない複雑な思いがあったのではないか。そう思わせるよい演出だと思う。

 

若者へのメッセージ

後半は青年将校の叛乱が主題になる。彼らの行動の源には、身勝手な正義感の暴走だけでなく、戦争遂行のはしごを外した政府や軍上層部の裏切りに対する怒り、そして、目的を失った巨大なエネルギーの無軌道な迷走などがない交ぜになっているのだろう。短絡的に善悪で裁くべきではない。ただし、それは圧倒的な暴力をはらんだ狂気であることは間違いない。純粋な暴力は邪悪ではないが、暴力という意味で悪なのだ。

岡本はここで、軍隊が根源的に持つ暴力性を描いているように思う。多くの血が流れるが、血の流れない場面でも、玉音レコード盤の探索のため宮内省内の家捜しをする場面などは強く暴力性を感じる場面だ。

最後の方に、当時、若手スターだった加山雄三が放送局員役として1シーンだけ登場する。オールスター映画的な顔見せではあるが、群像劇という意味では、この日を生きたすべての人に物語があり、それぞれが主役なのだと思わせてくれる場面だ。

岡本がこの映画で伝えたかったことは、鈴木貫太郎首相役の笠智衆の言うように、これからは若者の時代だ、ということだろう。ひとりでも多くの若者に未来を与えるために、万難を排し、あらゆる欺瞞も飲み込んで、戦争が終結されたのだと言うのだろう。

これは、昭和20年の若者たちへのメッセージでもあるし、昭和20年の若者である岡本から20年後の若者へのメッセージでもあるだろう。そのために、青年将校の暴発を描くことが必要だった。彼らは時代の流れから見れば徒花になったが、若者の持つ巨大なエネルギーと可能性を示すことはできたのだろう。

 

 2015年原田真人

分かりやすさが犠牲にしたもの

原田によるリメイク版では、岡本版よりさかのぼり4月の鈴木内閣発足から物語が始まる。山崎努演じる鈴木は侍従長を務めた経験から昭和天皇の信頼が厚く、役所広司演じる阿南陸相も当時の侍従武官長として天皇の近くに仕え、鈴木とも親交があった。つまり、はじめから天皇の内意を受けた戦争を終わらせるための火消し人、クローザーとして登板したように見える。

このことは物語を単純化して分かりやすくしている一方で、本来背景にある複雑さを放棄してしまっているようにも思える。三船演じる阿南のような敵か味方か分からない恐ろしさは無くなってしまったし、善悪を割り切って決定してしまってもいる。彼らは戦争を終わらせる人であると同時に、これまで戦争に加担してきた人でもある。戦争への責任、さらに主戦から和平への転向の罪悪感、さまざまな考えが混ざり合って、彼らの立場を揺さぶり続けたのが本当のところではあるまいか。しかし、これだとあらゆる迷いを捨てて戦争終結に邁進できてしまうところがある。

 

家族を描くことの是非

鈴木と阿南の家庭を描くのも岡本版との違いだ。首相の長男、一秘書官は原田版の方が圧倒的に存在感があるし、阿南の次男、惟晟少尉は写真のみのカメオ出演から役の付いた回想シーンへ格上げされた。陸相夫人が深夜、疎開先から歩いて官邸を目指す場面も挿入された。このエピソードは原作に無い。

日本映画が家庭や恋愛をエピソードとして挿入することに激しい拒否感を示す人もいるが、一般論としては家庭を描くべきでないとは思わない。ただし、今作では鈴木も阿南も家庭を引きずって、やさしい人になってしまっているように思う。鬼のような戦争犯罪人も家庭では好々爺だった、というようなエピソードもあるが、ここでは表裏の区別がはっきりせず、そうした凄みがない。

ともかく、鈴木と阿南がこの映画の主役であり善である、と決める分かりやすさから始まっているように思う。

 

青年将校は悪である

松阪桃李の畑中少佐は好演だと思う。岡本版の黒沢年男もエネルギーと暴力があふれ出しそうな、何をしでかすか分からない恐ろしさがあった。黒沢が動なら松阪は静だ。美青年の松阪が意思を奥に秘めた無表情で立つ姿には言いしれない恐ろしさがある。

そして、青年将校の描き方もおもしろかった。彼らのいるところには、必ずスローガンの垂れ幕が下がっている。彼らは年少ではあるが、エリート中のエリートで、前線ではなく東京の安全な場所にいて、地図を俯瞰して机上の作戦を議論している。そして、彼らの結論は精神論によって都合よく歪められている。居酒屋ポエムに代表されるような現代の若者に対する揶揄が含まれるかもしれない。

ともかく、岡本が青年将校に同情的なのに対して、原田は容赦が無い。鈴木と阿南を善と決めた以上、彼らには悪になってもらわなければ仕方ないということなのかもしれない。

 

昭和天皇の描き方

本作では本木雅弘昭和天皇を演じている。イッセー尾形が『太陽』で「ミカド」を演じたときには圧力から公開館数が限定されたことを思うと隔世の感がある。ただし、本木の演技は『太陽』から多くの影響を受けているように見える。

そして、今作の印象からは、終戦のプロジェクトは天皇が腹心である鈴木と阿南を使って始めた秘密プロジェクトだったようにも読み解ける。これは、生前退位にあたって「お言葉」が尊重される現代日本の皇室との距離感を反映しているようにも思える。天皇の関与をどのように描くかについては、かなりセンシティブな問題があるように思う。今作はかなりあやういところまで踏み込んでしまっているようにも思う。

 

老人のための映画

原田版の主役は明確に鈴木と阿南になっている。つまり老人が主役だ。老人がリリーフ的に登場し、国を救って去っていく、という筋書きになっている。当然、想定するメインの観客も老人になる。

岡本が若者に向けて作ったのに対し、原田は老人のために老人の物語を書いた。ただ、おもしろいことは、この原田の老人たちが50年前に岡本が若者と呼びかけたのと同じ人々であろうということだ。あのとき日本の未来を託された若者が、今、老人となって同じ映画を見るのかもしれない。

 

原田版に対する批判が多くなってしまったが、岡本が切り捨ててしまったものを原田版ではすくい上げているという部分も多くある。原田版の方がいくらか雑談めいたセリフを多く採用しているので、それが状況の理解を助けてくれることもある。状況をセリフで説明するのは禁じ手だが、それほどあからさまなものではないし、むしろ、岡本版の方に説明の点もある。

 

戦争を描くことの限界

原田は岡本に比べて、戦争の惨禍を描くことに頓着していないように思える。あるいは、あえてそうしなかったか。帝都東京の外側にあって多くのものが描かれずにいる。半世紀前であれば、描かなくても分かることが多くあった。しかし、戦後70年経った今では描かれないものは存在しないに等しい。とはいえ、会議を中心に描かれるこの作品に戦争の悲惨さを差し込むこと自体が無理難題に近い。

戦後70年と銘打ちながら、リメイクの対象としてこの作品が選ばれたことにある種の弱さを感じる。たとえば、『シン・ゴジラ』はこの作品のパロディとしてみるとひどくグロテスクだ。庵野秀明の描く官僚たちは現場で起きている災厄に心を動かさず、会議室の中で天下国家を語ることに酔っている、「画面の向こう側の存在」だ。そうした前線の災厄の中に飛び込めない弱さだと思う。

この世界の片隅に』は戦時中の庶民の暮らしを描いた作品だが、もしかすると現代を生きる我々が感情移入できるのは、そこがギリギリのラインなのかもしれない。もはや、前線の兵士の殺し合いなどは異世界のできごとであって、自分と連続性を持った事実としてのリアリティを感じられない、そんな時代であるのかもしれない、と思った。