汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

【おんな城主直虎】(22)恋に自覚的になることの喪失感

第22回「虎と龍」では、盗賊一味と井伊谷住民が衝突する。

 

直虎に雇われ、井伊谷に材木の伐り出しに来た盗賊一味。しかし、周囲の目は厳しい。賭場開帳問題に端を発して、あること無いことが一味の仕業とされるようになり、龍雲丸は仕事の放棄を宣言。窮地の直虎は宴会を企画。盗賊と住民の誤解が解ける。

 

都市と農村

井伊領にやってきた盗賊たちを見る農民たちの目は厳しい。盗賊ではなく、あくまで気賀から来た商人という建付けになっているが、そもそも気賀のような都市は有象無象が集まるところだ。閉鎖的な農村の民からすれば、商人というのは水商売。あやしい稼業に違いはない。

 

もっとも、瀬戸や祝田という村は開けたところにある。気賀に近く、陸路、水路の流通網にも接している。そして、方久(ムロツヨシ)のような商人も生み出している。井伊領の中では貨幣経済が浸透しており、比較的先取の気風の強い地域だが、それでも街から来た者たちには警戒感がある。

 

古代には、虹の立ったところに市が開かれた、と言われる。つまり、どこにでも市を立てていいわけではなく、呪術的な縛りを受けた。実際に市が立てられた場所は、四つ辻(街道の交差点)や川の中州のような場所が多かった。基本的には、農業利用が困難だったりして、私有をされていない土地だ。

 

そのため、農村から隔離されたところに市が立ち、無人の土地に人が集まり巨大化して都市ができた。消費者、生産者が多く住む農村に商業が生まれ、都市に成長したわけではなかった。

 

そうした都市の成立の経緯もあり、どれほど貨幣経済が浸透し、旅の行商人が村を訪れることが増えても、都市と農村には地理的な隔絶があった。そして、そのごく薄い壁のようなものが都市と農村の文化の違いを生み、農民に安心感をもたらしていたのだろう。

 

その壁が破られて、都市が農村に侵入してきた途端にパニックが起きたのだろう。

 

三角関係の復活

龍雲丸(柳楽優弥)に木の伐り方を教わる場面で、直虎(柴咲コウ)はおのれの煩悩が首をもたげたことに慌てふためく。直親(三浦春馬)の死後消えていた政次(高橋一生)を絡めた三角関係が復活した。

 

ブコメには欠かせない三角関係。しかし、三角関係の始まりを告げるシグナルがどうにもやかましい。ふわっとほのかな始まりではなく、三人とも自覚的で芝居であれば大根のようにぎこちない。

 

この頃の直虎は30歳くらい。乳母のたけ(梅沢昌代)には「とうの立った姫様」などと言われている。早婚の時代だから決して若いわけではないが、江戸時代ほど厳しく女性を縛る時代でもない。本来なら母親になっている年齢だから恋をしていけない、ということではない。尼僧だから煩悩が邪魔になるだけだ。

 

しかし、どうやら年齢からは逃げられないらしい。恋の始まりにあまりにも自覚的な自分を見つけてしまった。わけもないのに輝くような思春期の頃とは違うのだ。

 

恋であり、三角関係であり、姿形を持たない存在すら不確かなはずのものが、境界が明瞭な質量を持った実体として現れる。それは、遠ければ淡く近づけば霧消してしまう曖昧なものを失ってしまった、いかにも即物的な自分の鏡写しの姿なのだ。若さなどという相対的なものではなく、確かにあったはずのその感覚に対する喪失感。

 

しかし、得たものもある。それは実体としてそこにあるのだ。手を伸ばしたら消えてしまうような朧気な存在ではない。物質として確かにあるそれを、物理的に奪えばいいのだ。

 

龍雲丸は若い肉体として提示される。社会性をまとわない生身の肉体だ。

 

直親や政次とは幼なじみとして育ち、井伊谷という狭い社会の人間関係に複雑に絡め取られてきた。社会性を剥ぎ取って相手と向き合うことは難しい。

 

そうした環境では純粋な恋は成就しない。それを無償の愛に昇華させることで、狭い社会に生きる人を誰も傷つけず、濃密な関係を保つこともできる。しかし、それはごまかしであるかもしれない。

 

あらゆるものが、この世界の外側にある脚本とか演出とか言うものも含めて、「これが最後の恋だ」と告げているようだ。不幸なことに、ドラマのタイトルや残り回数が彼女の選択の自由を奪ってしまう。

 

彼をさらって逃げてしまえばいいのに。それとも、仕事より恋を取るのが女の幸せだという偏見こそ捨てるべきか。いずれにしても、何の代理なのか仕事か恋か選ばされていることが彼女の不幸なのだ。