汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

【おんな城主直虎】(21)大泥棒のメソッド

第21回「ぬしの名は」では、直虎が危機を乗り越え盗賊一味を味方に引き入れる。

綿布の販売先を求めて気賀へ赴く直虎一行。海運を有効に活用するため、より多くの商品が必要だという課題を突きつけられる。そして、直虎は盗賊一味に誘拐される。誘拐したのはお馴染みの盗賊・龍雲丸。危機を脱した直虎は、領内の材木を気賀で売ることを考え、人材確保のため盗賊一味を雇うことに成功する。

 

大泥棒の答え

盗賊の頭(柳楽優弥)の名前がついに明らかになる。

 

「自分は泥棒だが、武家というのは大泥棒だ」と龍雲丸は言う。

 

これは、北条早雲のエピソードからの借用だ。盗人に痛いところを突かれた早雲は、笑って盗人を釈放する。おそらく、これは中国の説話を元にした後世の創作だろう。ただし、戦国時代も含め時代と国を超え、被支配者の側がこうした思いを持っていたのは事実だろう。なぜなら、早雲の話は盗人のセリフより早雲の行動に主眼が置かれているからだ。盗人のセリフ自体は珍しくなく、オチには足りない。

 

戦国時代は武士が主役のように見えて、その実、彼らはとても保守的だ。むしろ、戦乱と下克上の時代だからこそ、それらを避けるために権威と秩序を求めて守りに入る。今川のような守護から発展した大名の権威を借りながら、近隣の武士との地縁血縁を張り巡らせて、失われた秩序を再構築しようとする。

 

武士を脅かすのは武士ではなく、それ以外の階層の人々だ。

 

中国の明や朝鮮半島との貿易を通じて、新しい技術と産業がもたらされる。後には東南アジアに進出したポルトガル人がそこに加わる。技術革新によって新しい産業分野が創出される。農業生産高は飛躍的に増え、商工業が発達する。人口増加によって農村から押し出された人々が都市に流入し、さらに新しい産業が生まれる。

 

こうして出現した巨大な産業と利権は、農業経営に基盤を置く武士のテリトリーの外側にある。こうした利権にいち早く目を付けたのは、武士によって農業利権から追い出された朝廷や公家、寺社だった。

 

後醍醐天皇が頼りにした「悪党」と呼ばれる人々も、こうした新産業を基盤にする勢力だった。浄土真宗のような新興宗教は、都市の商工業者と新規開拓地の農業経営者に浸透し、武士の収奪に対して一向一揆を結成して抵抗した。気賀もまた、武士の支配を拒み自治によって発展した自由都市だ。

 

武士が築いた古い秩序からはみ出し、新しい秩序を求めて社会を揺り動かした彼らの存在が、戦乱の世を作りだしたのかもしれない。そして、織田信長の統一事業にもっとも強力に立ちはだかったのも、武士ではなく彼らだった。

 

龍雲丸の挑発に思い悩む直虎(柴咲コウ)は青臭くも見える。そして、彼女が出した結論は「奪い合わずとも生きていける世をつくる」ということだった。

 

この言葉は、大泥棒である武士が、戦争と軍事支配を正当化するためによく使う大義名分ではある。「泰平の世をつくるため」と宣言して、天下統一事業のための戦争を繰り返すのだ。

 

しかし、従来の大河ドラマの主人公たちと違って、直虎には武力で天下を統一する力は無い。そこのところが新しい。

 

直虎が提案したのは、盗賊一味を材木の伐り出しに雇うというものだった。緊急雇用対策のような公共事業だ。高らかな宣言からすれば、確かにせこい。

 

しかし、直虎のように天下を動かすことのできない小さな領主が、それと対峙するでも媚びへつらうでもなく、独立した立場で「世」を変えていこう、と臨む姿勢は新機軸だといえる。それは、武士の支配からはみ出した人々と同じ立場からの変革でもあるし、また厭世観冷笑主義との戦いでもある。

 

彼女は井伊家という仕組みに囚われて、より大きな勢力の支配を受けている。しかし、その中で、精神の独立を高らかに謳おうとしているのだ。

 

気賀(続き)

浜名湖は明応地震(1497年)で海と繋がった。もともとは、海よりも水面の高い淡水湖で、浜名川という川によって海に通じていた。しかし、湖と海を隔てる陸地は土砂の堆積した軟弱な地盤だったため、巨大な地震とその後の津波によって崩落。今切口で海と繋がり、水位も下がって現在のような汽水湖となった。

 

東海道は古代から現代まで浜名湖の南を通っているが、水路を渡る必要が出てきたため、物流に用いるには余分なコストがかかるようになった。そのため、浜名湖の北側を通る脇街道の利用が促進されることになる。

 

また、海と繋がったことにより大型の船舶で湖の奥まで入り込むことになった。

 

浜名湖のもっとも奥にあり、脇街道が東西に走る気賀にとっては、都市が発展する大きなきっかけになった。都田川が浜名湖に注ぎ込むところにある気賀は、それ以前から北遠の物資の集積地だっただろうが、そこに陸路と海路の交差点という性格が加わり、「グローバル」な交通ネットワークのハブとして台頭して行くことになる。もともと、遠州灘は海上交通の難所として知られており、東西を行き交う船の避難、休息の用途としても、浜名湖の奥にあって安全な港である気賀は非常に高い価値があったのだろう。