放送開始直前!おんな城主直虎ゆかりの地・井伊谷をめぐってきたよ
放送開始に備えて「おんな城主直虎」の舞台・井伊谷に行ってきました。
「備えて」っていうのもおかしいけど。
井伊氏の本拠地は、ざっくり静岡県の浜松市あたりと言われていますが、厳密には浜松とは違います。市町村合併で浜松市の一部になっていますが、一昔前は引佐町といわれていた辺り。現在の浜松市北区とおおむね重なるエリアが「井伊領」という井伊氏の一族と家臣にあたる武士たちの領国です。そして、その中心が井伊本家の本拠地である井伊谷(いいのや)になります。
ともかく、浜松がゴールではなくスタートなのです。
浜松は家康くんの領土だった
まずは、玄関口のJR浜松駅。
看板とラッピングで盛り上げています。
しかし、ここはまだ、井伊氏の領国の外。現在でも「出世大名家康くん」の勢力圏です。家康と直虎が横並びのカットも多く、直虎はゲスト扱いな感じを受けます。
出世法師直虎ちゃん。ウナギを持たされとる。そして、ネーミングにも家康くんの影が感じられます。
ローカル鉄道で井ノ国へ
ここからは車が便利なのですが、あえてローカル鉄道の旅を選びます。そっちの方が地元がどういう感じで盛り上がっているか、いろいろ見えてきそうだからです。
赤備えの遠州鉄道
『戦国BASARA』とのコラボ。そして、ここにも家康君。
ラッピング列車も走っています。
天竜川に沿うように走って、終点の西鹿島駅へ。所要時間は30分くらい。
北遠といわれる現在の浜松市天竜区である北遠エリアの玄関口でもあります。信州伊那谷に続くエリアで、当時は有力豪族・天野氏の支配下でした。
とにかく、浜松は広くて奥深い(地理的に)。浜松城辺りをピンポイントで押さえるだけでは全然ダメ。周りがこれだけ広いと、いろんなところに反対勢力が潜むことができるわけですね。こういうところを治めようと思ったら戦国大名は大変だなあ、と思ったのでした。
天竜浜名湖鉄道
ここから、天竜区方面ではなく、井伊氏の領国・北区方面へ。天竜浜名湖鉄道に乗換えて、気賀駅に向かいます。
しかし、ダイヤの連結が悪く30分待ち。遠州鉄道は比較的本数がありますが、天竜浜名湖鉄道は30分~1時間に1本の超ローカル鉄道。事前にダイヤの確認が必要です。
結局、浜松から1時間半くらいかかって、ようやく気賀駅に到着。
駅舎のデコレーションの模様。
そして駅舎の内部。こちらも『戦国BASARA』が食い込んでいます。
交通の要衝・気賀
実は隣の金指駅の方が井伊谷に近いのですが、気賀には「大河ドラマ館」が開設されるなど、井伊谷への入り口として整備が進められているのですね。タクシーを利用する場合も、こちらの方が拾いやすいかもしれません。
ちなみに、こちらが大河ドラマ館予定地。駅を出て、踏切渡って右の辺り。奥の白い建物がドラマ館になります。オープンは1月15日ということで、中には入れませんでした。
なぜ気賀に大河ドラマ館ができるかというと、「利用できる行政の建物があるから」ではありますが、そもそも行政の施設があるのは古くから気賀がこの地域の中心だったからです。
ここは、浜名湖の北岸にあたり、井伊谷から流れる井伊谷川が都田川と合流して浜名湖に注ぐところ。そして、東海道の脇街道である姫街道(本坂越え)も通っています。つまり、河川湖沼を利用した水上交通と街道の陸上交通が交わる要衝だったわけですね。
そんなわけで江戸時代には関所がありました。
ここから、井伊谷の竜潭寺まで車で10分、徒歩40分。タクシーがたまたまいなかったので、歩くことに。
道順はとても簡単。井伊谷川を右手に見ながら、ずんずん歩くだけ。この辺りは、井伊氏の本拠地ではないものの、一族や家臣が領地を持っていた井伊の勢力圏内です。
看板が見えてきました。ここから先が旧引佐町。おそらく、戦国時代の井伊谷の入り口でもあったでしょう。
直虎にまつわるエトセトラ
井伊谷に入る前に、ちょっと休憩。井伊直虎ってどんな人?そして、物語の背景はどうなっているのでしょうか。
直虎に関して残された資料は少なく、生年は不明ですが、だいたい1535年頃の生まれと推測されています。織田信長や豊臣秀吉と同世代、徳川家康よりは少し年長でしょうか。
そして、没年は1582年ですから、奇しくも前年の大河ドラマ『真田丸』の第1話の年になります。
戦国大名・今川氏との関係
井伊氏は遠江国井伊谷、現在の静岡県浜松市引佐町あたりの国人領主です。
戦国大名・今川氏の支配下にありましたが、江戸時代の殿様-家臣の関係と違い、両者の関係が一筋縄では行かないのが戦国時代です。
もともと井伊氏と今川氏の間には南北朝時代以来の長い確執がありました。
井伊氏としては、今川傘下に入っても家来としての最低限の義務だけこなして、できるだけ独立性を保ちたい。一方、今川氏としては井伊氏の領国経営に介入し、支配を強化したい。
形の上では主従関係にありながらも、中央集権と地方分権のような綱引きのような対立関係がある。そして、この今川氏との関係が井伊氏に多くの悲劇をもたらすことになります。
筆頭家老・小野氏との関係
井伊家の当主・直盛(演・杉本哲太)には男子がなく、叔父・直満(宇梶剛士)の息子、直親(三浦春馬)を娘の婿に迎えて跡継ぎにしようとします。この娘というのが、のちの直虎(柴咲コウ)です。
しかし、これに不満を持った筆頭家老の小野政直(吹越満)が「直満に謀反の疑いがある」と今川家の当主・義元(春風亭昇太)に讒言。直満は弟の直義とともに駿府に呼び出され、謀殺されてしまいます。直満の息子の直親も命の危険があるため、信州伊那谷に逃亡してしまいます。そして、直虎は出家して次郎法師と名乗ることになります。
小野氏は裏切り者の大悪党に見えますが、そこは戦国時代のこと。今川-井伊の関係同様、井伊-小野の関係も江戸時代とは異なります。
殿様が絶対ではなく、地域の武士や領民のために正しいと思ったら、殿様に盾をつくこともいとわないのが戦国の武士。武田信玄が父親を追放して当主になったのも、そういう家臣団の支持があったからでしょう。
特に戦国時代の「筆頭家老」というのは、家来というよりその地域のナンバー2の実力者という場合があるようです。
例えば、有名な黒田官兵衛も小寺氏の家老ということになっていますが、独立性が強く勝手に織田信長に付いたりしている。
あるいは、『真田丸』の室賀や出浦の立場とも似ているかもしれません。もともとは真田とほぼ同格の国衆でしたが、出浦は真田の家臣になることを選び、室賀は徳川の直接の家臣になることを選びました。
完全な縦関係ではなく、縦なのか横なのか曖昧な微妙な関係というのが実際の感覚ではないでしょうか。
また、小野氏は徹底して親今川派ですが、それ自体が悪いわけではない。今川と対立を深めるよりは融和策を取った方が井伊家のためになる、という考え方も無いわけでもありません。あくまで外交政策の違いであって、善悪で見るべきではないのかもしれません。
小野政直の息子が、直虎の幼なじみの政次(高橋一生)。直虎、直親とは三角関係になるのだと思いますが、そこに政治的な思惑が絡んで複雑な展開になりそうです。しかし、政次は後に井伊直政に仕え、江戸時代以降も井伊氏の家臣として続きますから、やはり善悪の対立ではなく、「それぞれの正義」のぶつかり合いと見た方が楽しめそうです。
おんな城主は特別なことだったか?
そして、直虎の立場についてです。戦国時代は江戸時代よりも女性の権利が強く認められていたようです。
鎌倉時代には、女性が領地を相続した事例が多数あり、女性の御家人もいたといわれています。室町時代以降、社会が不安定になると男性中心の社会に変化していったのでしょう。しかし、まだまだ、昔ながらの風習が影響力を持っていたと考えられます。
たとえば、薩摩の島津家の場合、当主・義久に男子が無く、甥にあたる忠恒が後継となりますが、これは血縁のもっとも近い男子だったからではなく、義久の娘との婚姻によって当主の資格を得たと解釈されています。つまり、本来の継承権は義久の娘にあって、その婿の立場で忠恒が当主になったということです。
このケースは、直虎の場合と非常によく似ています。つまり、継承権は最初から直虎にあり、その代理として男性が当主の仕事を執り行う、というのが井伊家の一族、家臣たちの了解としてあったのだと思います。
直虎のもつ継承権の意味と井伊家臣団(井伊領の武士団)内部の政治バランスが複雑に絡みあって、その後の波瀾万丈なストーリーになっていくのでしょう。
いよいよ井伊の本拠地、井伊谷へ
井伊谷は、井伊谷川と神宮寺川が合流するところで、二つの川の外側に山が連なっている谷地形。下流側の低地が田地、上流側が住宅地になっており、その背後に両川に挟まれて井伊谷城を擁する山が控えています。
共保出生の井戸
道なりに進んでいくと、集落が見えてきました。集落の入り口あたり、住宅地に接した田んぼの中に、井伊家初代・共保出生の井戸があります。牧原医院という病院が目印。
井戸から出てきた赤ん坊を土地の有力者が我が子として育てたのが井伊家の始まり、というファンタジックな伝説が伝わっています。よその土地に移ってからも井伊家の一族が大事にしていたらしく、きちんと整備されています。
『直虎』初回では、南渓和尚(小林薫)の初登場シーンがここ。劇中では森の中でしたが、現在では田んぼになっています。
それから、観光案内付きのタクシーツアーの人を何人か見かけました。いろいろ迷ったり面倒なことをするくらいなら、タクシーにおまかせしてしまうのもありかもしれません。地元の遠州鉄道タクシーで受け付けているそうです。要事前予約となります。
竜潭寺
そして、竜潭寺(りょうたんじ)。直虎ゆかりの地めぐりでは外せません。共保出生の井戸の近く、集落の入り口にあたる場所にあります。
鐘が撞き放題。並んでます。
竜潭寺は井伊家の菩提寺で、直虎の時代には祖父の弟にあたる南渓和尚(小林薫)が住職を務めていました。『直虎』のストーリーの中で非常に重要な役割を果たすお寺です。
『直虎』初回では、おとわ、鶴、亀が勉学に励むのがこのお寺。井伊の館からそう遠いところではありません。この距離感が分かるとドラマがよりおもしろくなるのではないでしょうか。
裏手には井伊家歴代の墓所もあり、直虎の墓もその中にあります。
興味深いのは、山門から仁王門に向かう参道がまっすぐではなく、矩形に折れ曲がっていること。これはお城に見られる仕掛けで、防御のための施設ではないかと考えられます。
つまり、井伊谷川に沿って南から敵が侵入してきたとき、集落の手前にある竜潭寺でまず迎え撃つ、ということが考えられていたのでしょう。
『直虎』放送前ですが、竜潭寺にはすでに多くの観光客が押しかけており、駐車場はほぼ満車でした。地元の浜松ナンバーが多く、豊橋、豊田、岡崎など愛知県西部のナンバープレートがそれに続く感じです。
ちなみにお寺の前のお土産物屋さんは、当然ですが直虎グッズが充実しています
ここで買ったのが、クッキー入りのこの刀。ちゃんと鞘から刀が抜けます。
一応、言い訳をしておくと、このあたりはもともと観光地ではなく、住宅地に近接したゆかりのスポットも多いです。なので、よそ者慣れしていない地元のおじいちゃん、おばあちゃんに安心してもらうためにも、「あいつ、観光客だな」と一目で分かるグッズを持って歩いた方がよいのではないでしょうか。以上。
井伊谷宮
竜潭寺の裏手にあるのが、井伊谷宮。後醍醐天皇の皇子、宗良親王を祀った神社です。
南北朝時代の井伊氏は宗良親王を擁し南朝方として、北朝方の足利氏一族(室町幕府)と戦いました。そのことが、やはり足利一門の今川氏との因縁に繋がっていくわけです。
神社の裏側には、宗良親王の陵墓があります。親王の薨去地には諸説あり、墓と伝わる場所も複数ありますが、ここは宮内庁の管轄になっています。
なお、親王陵墓は南を向いていますが、そのため、背面にあたる井伊谷宮は神社としては珍しく北を向いています。
妙運寺と渭伊神社
入ってきた方とは反対側から抜けて、井の国大橋を渡ります。このあたりは、新しい分譲住宅地になっています。おそらく、古くは丘陵で最近、浜松市街地のベッドタウンとして開発されたエリアではないでしょうか。
その中にぽつんとあるのが、妙雲寺。直虎を祀るお寺です。
妙運寺から、さらに奥にいったところにあるのが、渭伊神社。
祭神を見ると八幡神で、伊豆社としてニニギノミコトが配されている(「モロード様」というのは客人様の意味でしょう。)のは源頼朝が信仰した伊豆山神社あたりの影響でしょうか。つまり、表向きは鎌倉武士的な神社です。
ところが、式内社という平安時代初期に遡れる神社で、境内には古墳時代の遺跡もあります。
つまり、井伊谷というところは非常に古い時代に拓かれた土地で、土地の神さまとして長らく祀られてきたのがこの神社ということでしょう。
地域遺産センター
ここから、市街地の方に戻ってくると、新興住宅地と旧市街地との境目あたりに地域遺産センターがあります。「戦国の井伊谷」という展示をやるそうですが、オープンは1月15日と、もう少し先。
もともとは、引佐町の町役場があったところで、合併後は地域の行政拠点として活用されていたようですが、このたび、『直虎』に合わせて、地域遺産センターとして新装開店する模様です。
井伊谷城
さて、そろそろ井伊谷城跡に登って行きます。山城です。標高は114mとたいしたことなさそうに見えますが、江戸時代の平山城がだいたい30m程度の丘に築かれていますので、それと比べれば十分要害です。
登り口はこちら。距離にして310m、片道15分ほどになります。
道の舗装と手すりは新しく、大河ドラマ決定後に予算が付いて整備されたものでしょう。
坂はけっこうきついです。登り口の標高は分かりませんが、300mほどの距離で標高114mまで行こうとしているので、かなりの斜度がついています。
途中に休憩ポイントが2カ所くらいあるので、のんびり行ってください。
頂上はこちら。当時は櫓などが備えられていたかもしれませんが、現在では特に何もない。
しかし、ここから井伊谷が一望できます。両側を山に挟まれた谷地形であることがはっきり分かります。右手手前に見える丘が竜潭寺のあたりです。
もう少し、右側を見ると奥の方にちょっとだけ浜名湖が見えます。電車を降りた気賀のあたりでしょう。
井伊谷は奥まった谷ですが、谷の外で何か異変があればここから察知できるわけですね。このことは、井伊氏と直虎の思考や世界観に少なからず影響を与えたと思います。
井伊谷城は『直虎』初回にも登場しますが、ここから見える景色がCGで見事に再現されているのが隠れた見所です。
ついでにこちら。三つ見える峰の中央が三岳城。井伊氏が決戦用に用意した本格山城です。攻めるというより登るだけでも大変そう。
二宮神社と足切観音
下りは登ってきた方とは別の道で降りていきます。井伊谷川の上流に当たる方面です。
麓にある二宮神社は、井伊谷を拓いたという三宅氏の祖先・田道間守と宗良親王を祀った神社です。
そこから、もう少し下った足切観音堂。観音様が、戦闘で足を怪我した宗良親王の身代わりになったという伝説があります。
直虎の時代には、ここに井伊直満の屋敷があったといわれています。
井殿の塚
そして、パンフレットには書いてある「井殿の塚」を探します。これはなかなか見つかりにくい。
坂道にぽつんと一本だけ『直虎』の幟が立っていて、その横に巨木があります。それが目印。
『直虎』ストーリー序盤の重要事件である、直満・直義誅殺事件。この塚では、直虎の二人の大叔父である直満と直義を祀っています。
そして、ここは井伊氏の居館の北西の隅にあたるところ。
居館の門だったあたりは、現在、公民館になっています。「直虎元年」と来たもんだ。
屋敷の痕跡は残っておらず、あたり一帯、住宅地になっています。そういうわけなので、あまりうるさくならないように気をつけて歩いた方がよいでしょう。
最後に、井伊谷川の下流方面から井伊谷を見たところを。右端に見える山が井伊谷城です。
別ルートで浜松へ
直親と政次の屋敷は
帰りは行きとルートを変え、国道257号線を金指駅に向かいます。ここが、井伊谷からもっとも近い駅。
峠越えの道になります。
なお、金指駅から都田川を渡った蜂前神社のあたりに直親が屋敷を構えていたらしいので、金指あたり一帯も井伊一族の勢力圏。
ちなみに、気賀から井伊谷に入る手前のあたりに小野という地名があるので、その辺りが筆頭家老・小野氏の本拠地だったのでしょう。
浜名湖の西へ
金指駅に着きました。盛り上げ方はミニマムな感じ。
天浜線版のラッピング列車。
帰路は来た路線を戻らず、もう一つの鉄道ルート、天竜浜名湖線-JR東海道線を試します。つまり、往路と同じく天竜浜名湖線(天浜線)の下りに乗り、浜名湖の西側に回り込みます。天浜線終点の新所原でJR東海道線に乗換え、浜松に戻ります。
ここから、JRに乗換えて浜松へ戻るのですが、電車の待ち時間がほどほどで済み、浜松までトータル1時間くらいでした。
まとめ
想像力が試される直虎ゆかりの地
直虎ゆかりの地を巡ってみて、戦国時代の国人領主(国衆)の活動範囲や土地との関わりのようなものがリアルに感じられました。
非常に狭いエリアなので、領地の広さがこれくらい、田んぼの広さがこれくらい、家来、領民がこれくらい、ここからここまで馬で走ればこれくらいの距離、というようなものが手触りとして感じられました。
戦国大名だと規模が一気に大きくなるので、どうしても地図の上から眺めるバーチャルな理解になってしまいます。
『真田丸』の真田の郷もこんな感じだったのか、と思うと趣深い。
当時のものが復元されたスポットはほぼ皆無に等しいので、つまらなく感じる人もいるかもしれませんが、ちょっと想像力を働かせて戦国時代のイメージを現実の風景に重ねてみると、とてもおもしろいと思います。
浜松からの導線をどうつなげるか
とはいえ、観光の準備という意味では少し物足りないように感じました。
もちろん、大河ドラマは一過性のブームなので、巨額の投資はよろしくない。しかし、「まさか直虎で来るとは」と準備が後手に回った部分はあるように思います。
鉄道両社もラッピング列車を走らせるのは悪くないですが、もう一歩踏み込んで欲しい。所要時間や下車後の交通手段でいえば、明らかに鉄道は不利。しかし、移動手段として捉えず、乗ってる時間を楽しむならむしろ時間は長い方がいい。バスやレンタカーではなく、積極的に鉄道が選ばれる企画に期待したいところです。
鉄道に限らず、距離の離れた浜松と井伊谷の間の導線をどのように作るかは大きな課題だと思います。経済効果という意味でいえば、もともと観光地ではない井伊谷では使ってもらえるお金の額が限られます。巧みに観光客を浜松へ誘導しなければ、消費の刺激にはならないでしょう。
また、「大河ドラマ館」などの施設も長丁場に備えてか1月15日オープンになっていますが、放送開始前から観光客が訪れはじめていますから、この点も出遅れ感が否めません。
そして、浜松市内の微妙な空気。基本的に直虎のお土産は売ってませんでした。駅前の「浜松出世の館」が1月8日オープンということですが、こちらでフォローできるでしょうか。
まあ、車で来て車で帰るなら、浜松駅は関係無いですけどね。
これから行く人へのお願い
繰り返しになりますが、井伊谷はもともと観光地ではありません。竜潭寺などもありますが、どちらかといえば「史跡」で観光客が大勢押しかけるところではありません。
ゆかりのスポットの多くは、生活エリアに近接しており、住宅街の中を移動することもあります。
見たところ、もともと農業主体の町で浜松のベッドタウンとして新しい住宅地が増えてきたようなところです。
地元の人は観光をなりわいとしているわけでなく観光客慣れもしていませんし、行政側も生活エリアと観光エリアがきっちり別れるように観光客の導線を引くみたいなところまで対応不可能でしょう。
なので、観光を楽しむ中にも地元の人の暮らしを邪魔しないような配慮をお願いしたいと思います。井伊谷の素晴らしいところは、観光地として整備されていないため、時代を超えてこの土地に根ざして生きてきた人々の息づかいのようなものを感じさせてくれるところだと思います。ですから、ぜひとも地元の人とのよい関係を保ってほしいと思うのです。
おまけ
おまけの浜松城
おまけの家康君