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汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

ヤング・アダルト・ニューヨーク (While We're Young)

ニューヨーク、ブルックリン。ドキュメンタリー映画作家のジョシュは44歳。デビュー作で高い評価を得たが、現在は新作の制作に8年以上を費やすスランプ状態。売れない芸術家の常として大学講師で糊口をしのぎつつ、助成金を頼りに一本の映画を延々と作り続けている。編集と追加撮影を繰り返すうちに、6時間以上の超長編作になってしまったのだから、誰の目から観てもこじれている。

 

 

妻のコーネリアはプロデューサー。ジョシュの師匠でドキュメンタリー映画の巨匠、ブライバード監督の娘だ。

 

親友夫婦に子どもが生まれ、彼らの変貌ぶりに困惑する二人。子ども中心の生活を営むのは、自分自身の人生を諦めたかのように見えるのだ。

 

そんなとき二人は、ドキュメンタリー映画作家を志望するジェイミーとダービーの若い夫妻と出会う。20代の彼らは、いわゆるヒップスター。裕福ではないが、友人たちともに気ままに自由な創作活動を楽しんでいる。

 

成功を求めるのでは、過程を楽しむ。そんな彼らのスピリットに引かれるジョシュとコーネリア。若い夫婦との交流を通じて、若さと精気を取り戻していく。

 

そして、ジョシュはジェイミーのドキュメンタリー制作に力を貸す。

 

と、ここまではハートフルコメディなのだが、後半から物語は急転する。

 

この物語は義父であるブライバードの世代も含めて、3つの世代の対比が重要なテーマになっている。そして、40代に差し掛かったジェネレーションXの苦悩と葛藤を描き出す。

 

主演のベン・スティラーと監督のノア・バウムバックは、主人公のジョシュより少しだけ年長だが同じ世代。そして、どちらもブルックリンの出身。ジョシュは彼らの分身なのだ。

 

興味深いのは、テクノロジーにどっぷり依存しているのが、ジェイミーたち若者世代ではなく、ジョシュたちの世代だということだ。技術には疎いが人生経験が豊富な年長者とその逆の若者、というステレオタイプは描かれない。

 

インターネット世代はもはや若者ではない。現在の若者たちは、そうした過剰に進化した工業化社会と商業主義からは、一線をを画してよりクリエイティブな生活を選び取ろうとしている。そのことで、ジョシュの世代がすでに若くはないことを気づかされる。

 

一方で、ジョシュの世代が若者には無い経験と知識を持っているかといえば、それを武器にできるほどの自信は無い。そして、競争から片足抜けるような地位も無い。昔よりも、年寄りは健康で長生きになった。彼らが父親から譲られたものを、その年齢を過ぎても譲らずに頑張っている。

 

作中の劇伴として、1979年の映画『クレイマー、クレイマー』の印象的なテーマ曲が幾度も流れる。この作品もニューヨークが舞台。ジョシュたち、というよりバウムバックたちの父親世代の物語だ。バウムバックの出世作である自伝的作品『イカとクジラ』も、同じ時代のニューヨークを舞台とした作品。離婚と親権争いというテーマも『クレイマー、クレイマー』と同じだ。作中で両親の板挟みとなる子どもが、バウムバック自身なのだ。

 

あのときの子どもが両親たちと同じ年齢になった。そして、彼らとは違う形で人生の岐路に立っている。

 

わたしたちは彼らより未熟だろうか。それとも、少しは賢いだろうか。彼らのようになれないのか、なりたくないのか。いつまでも、あのときの子どものままなのだろうか。

 

良質なコメディーは人間の哀しさをおかしみとして浮き上がらせる。それを笑うことで人生を肯定させるのだ。

 

ベン・スティラーが好演。うっかり彼の監督・脚本作かと思うほど、同郷同世代のバウムバックとシンクロしている。

 

最先端のアメリカ文化を表現する古くて新しい街ブルックリンと、その主役であるヒップスターたちの姿は印象的だ。分断が深まるアメリカを一枚の絵で切り抜くことは、もはや不可能だが、この街を抜きにしてアメリカを表現することはできないだろう。

 

監督の悪意の塊として作られた映画投資ファンドの脳みその無いファンドマネージャーが一番笑える。

 

 

ヤング・アダルト・ニューヨーク(2014/アメリカ/キノフィルムズ)

原題:While We're Young

監督・脚本・製作:ノア・バームバック

出演:ベン・スティラーナオミ・ワッツ、アダム・ドライバー、アマンダ・サイフリッド