汽水域 Ki-sui-iki

ローカルとオルタナティブ 浸透し混じり合うところに生まれる生態系

大都会の片隅で、ここだけ神在月 出雲大社東京分祀へ行ってきた

東京・六本木にある出雲大社東京分祀にお参りに行ってきました。六本木ヒルズから六本木通りを挟んだ向かい側、路地を入って雑居ビルが立ち並ぶ中にあります。コンクリートのビルの形をしていますが、見た目にだまされることなかれ。由緒の正しい神社です。

 

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祭神は出雲大社と同じ大国主大神大国主命)。縁結びの本家本元の神さまです。明治の初め頃、出雲大社宮司で第80代国造の千家尊福(たかとみ)が自ら出雲大社の神さまの霊を分けてつくった東京分祀をつくりました。

 

明治22年に麻布区材木町(現在の港区六本木7丁目)に移転。戦災に遭ったのち、昭和36年に現在の場所に木造で再建されました。昭和55年には鉄筋コンクリートの現在の姿になっています。明治の頃には、このあたりはまだまだのどかな郊外だったのでしょうが、時代の移り変わりに合わせて神社もビル化をせざるをえなかったのでしょう。

 

明治の初め頃には、近代国家の精神的支柱として神道を整える、いわゆる国家神道化が行われ、江戸時代までと多くのことが変わりました。その中で出雲の信仰を伝えるべく多大な努力をしたのが、東京分祀をつくった千家尊福でした。

 

まず、神道の中で重要な神さまを決める「祭神論争」がありました。ここで、尊福ら出雲派の主張は通らず、敗れ去ります。さらに、神官が教導職に就くことを禁ずる通達が出ます。それまでの神社では御師(おし)と呼ばれる全国を渡り歩いてお札を配って布教をする人たちの組織がありました。これが神社から分離されることになったわけです。そこで尊福は出雲大社宮司職を弟に譲って、布教組織の出雲大社教(いずもおおやしろきょう)を立ち上げます。神社よりも信者の集まりを選んだわけですね。

 

出雲大社宮司出雲国造と呼ばれ、天皇家に準ずる家柄です。その地位を投げ打つのですから、相当な覚悟があったのでしょう。尊福の主張は明治の神道には反映されませんでしたが、それとは別の信仰のあり方を示したことには大きな意義があります。

 

その尊福がつくった東京分祀。外見はコンクリートですが、内にはその情熱が伝わっているのでしょう。

 

正面の外階段を登っていくと、2階から左右に分かれます。3階に上がると正面に拝殿があります。しかし、まずは左手の手水舎で手を洗いましょう。こちらには、清めの神さまを祀った祓社もあります。

 

参拝は2拝4拍手1礼。出雲大社では4回、柏手を打つのがお参りの作法です。

 

お守りやお札を売っている社務所やおみくじ売り場と結ぶところ、すべて3階にありコンパクトにまとまっています。なお、きちんと申込みをすれば拝殿の奥に上がってご祈祷をしてもらえます。